姫柚子の讃
佐藤垢石
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)鰍《かじか》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)鰍|膾《なます》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「竹かんむり/奴」、第4水準2−83−37]《ど》
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このほど、最上川の支流小国川の岸辺から湧く瀬見温泉へ旅したとき、宿で鰍《かじか》の丸煮を肴《さかな》に出してくれた。まだ彼岸に入ったばかりであるというのに、もう北羽州の峡間に臨むこの温泉の村は秋たけて、崖にはう真葛の葉にも露おかせ、障子の穴を通う冷風が肌にわびしい。私は流れに沿った一室に綿の入った褞袍《どてら》にくるまり、小杯を相手として静かに鰍の漿《しょう》を耽味したのであった。
折りから訪ねてきた一釣友に、この小国川は鮎ばかりでなく鰍にも名のある渓であるときいた。小国川は昔、判官義経主従が都を追われ、越路をめぐって羽前の国の土を踏み、柿色の篠懸《すずかけ》に初夏の風をなびかせて、最上川の緑を縫った棧道をさかのぼり、陸奥《むつ》の藤原領へ越える峠の一夜、足をとどめた生月《いけづき》の村の方からくる源遠き峡水であるから、ここに棲む鰍の味が肥えているのは当然のことであろうと思ったのである。そこで私は、この丸煮よりも鰍|膾《なます》[#ルビの「なます」は底本では「まなす」]の淡白を所望したのであるけれど、生憎《あいにく》このごろは漁師が川業を休んでいるために、活き鰍が市場へ現われてこぬとのことであった。残念ながら、いたしかたない。それにつけて思いだしたのは、わが故郷奥利根川の鰍である。私は幼いころから、利根川の鰍に親しみ深かった。
晩秋の美味のうち、鰍の膾《なます》に勝るものは少ないと思う。肌の色はだぼ沙魚《はぜ》に似て黝黒《あおぐろ》のものもあれば、薄茶色の肌に瑤珞《ようらく》の艶をだしたのもある。しかし、藍色の鱗に不規則に雲形の斑点を浮かせ、翡翠《ひすい》の羽に見るあの清麗な光沢をだしたものが、至味とされている。
殊に、鰍の味と川の水温とに深い関係があった。上越国境の山々が初冬の薄雪を装い、北風に落葉が渦巻いて流れの白泡を彩り、鶺鴒《せきれい》の足跡が玉石の面に凍てるようになれば、谷川の水は指先を切るほどに冷たくなる。鰍の群れはこの冷たい水を喜んで、底石に絡《まと》わりながら上流へ遡《のぼ》ってゆく。そのころ瀬を漁《あさ》る鰍押しの網に入ったものが、一番上等といえるのである。
また早春、奥山の雪が解けて、里川の河原を薄にごりの雪代水で洗うとき、遡《のぼ》り※[#「竹かんむり/奴」、第4水準2−83−37]《ど》で漁《と》った鰍も決して悪くはない。山女魚《やまめ》も鱒の子も、鮎も同じように冷たい水に棲んでいるものほど、骨と頭がやわらかであるが、殊に鰍は晩秋がくると、こまやかな脂肪が皮肉の間に乗って、川魚特有の薄淡の風味のうちに、舌端に熔ける甘膩《かんじ》を添えるのだ。
奥上州の、空に聳える雪の武尊山の谷間から流れでる発知川と、川場川を合わせる薄根川。谷川岳の南襞に源を発し猿ヶ京を過ぎ茂左衛門地蔵の月夜野で利根の本流に注ぐ赤谷川で漁れる鰍は、わが故郷での逸品である。東京近県では上州のほかに常陸の国の久慈川上流に産するもの、また甲州白根三山の東の渓谷を流れる早川で漁れる鰍も、まことにみごとである。いずれの川も水温が低いためであると思う。
鰍は、二月から四、五月にかけて、水底の大きな石の裏側に卵を産みつける。姿は沙魚《はぜ》よりも丈が短く、頭が割合に大きく尻がこけているのである。大きいのは四寸位にまで育って腹に吸盤のついていないものが上等とされている。北陸地方では鰍のことを鮴《ごり》と呼んでいるが、これも変わった種類ではない。今年の八月のはじめ、京都の四条の橋の袂の神田川で鰻を食べたとき、つきだしにだした小型の鰍の飴煮もおいしかった。天明のころ、長崎へきていた和蘭陀《おらんだ》人の調べたところによると、日本には九州と山陰道だけでも四十幾種類の鰍がいるという。その写生図が、私の友人のところにある。であるから、全国を調べたら随分|夥《おびただ》しい種類の数にのぼるであろう。
鰍は素焼きにして、山葵醤油をつけて食べても、焼き枯らして味噌田楽にこしらえても、また丸煮にしても、いずれも結構であるが、頭と脊骨と腸を去って天ぷらに揚げるか、膾《なます》に作ればこれに勝った味はない。特に、膾の醤油に姫柚子《ひめゆず》の一滴を加えれば、その酸味に絶讃の嘆を放ちたくなるのである。
姫柚子といえば、この初秋鎌倉の釣友を訪ねたとき、夕餐の膳を飾るちり鍋に添えて、緑の色深い姫柚子が数粒、小皿の上にあった。私は、それをなつかしく眺めた。
寒国である私の故郷は、柑橘類に恵まれていなかった。姫柚子など、あろうはずがないけれど、私は姫柚子の味に永い間親しんできたのである。それは、私に四国の阿波の国に友人があって、そこから毎年初秋になると送ってきた。私は、湯豆腐にちり鍋に、この姫柚子の調味を配して、遠い国にある友の心を偲んだのである。
姫柚子は、西国の特産である。四国、九州、紀州などのほかに絶えて見ぬのであるけれど、これはどこから到来したのであるかと鎌倉の釣友に問うたところ、やはり讃岐の友から送って貰ったのであると答えた。そこで私は、阿波の国の友人の身の上を思って、なつかしさが一入《ひとしお》であった。友はいま、故郷を離れ南支へ赴いて働いている。そのために、ここ一両年は姫柚子に接しなかったのである。久し振りに、四国の友に会う思いがした。
ちり鍋の材料は、大きなほうぼう一尾、槍烏賊《やりいか》三杯、白菜、根深《ねぶか》、細切りの蒟蒻《こんにゃく》などであったが、これは決して贅を尽くした魚菜とはいえまい。しかしながら、姫柚子の一滴は、爛然《らんぜん》として鍋のなかに佳饌の趣を呼び、時しも窓外の細雨に、二人は秋声の調べを心に聞いた。鼎《かなえ》中の羮《あつもの》に沸く魚菜の漿、姫柚子の酸。われらの肉膚は、ひとりでに肥るのではないであろうか。
さらに膳を賑わせたのが、茄子《なす》の丸焼きであった。これは友が庭前の叢《くさむら》に培った秋茄子である。焦げた皮を去って、丸呑みに一噛み噛み込めば、口中に甘滋が漂う。次に、唐黍の掻き揚げが盆にでた。これは、珍味である。唐黍の果粒が含む濃淡な滋汁が、油と融け合い清涼の味、溢れるばかりであった。季節の天産を、わが手に割烹《かっぽう》するほど快きはないのである。友の家庭に潜むこの情味を、羨ましく思う。
さて私は、ほんとうは鮎を求めて、小国川へ釣りの旅を志したのであった。しかし、この山国の渓流はもう水が冷えきって、鮎は落ち鮎となり下流に下って、瀬見温泉あたりに姿をとどめなかったのである。とはいえ、それを私は残念とは思わなかった。それは、落ち鮎は味の季節ではないからである。
人により子持ち鮎を至味というが、私はそれに賛成しない。鮎は土用があけて秋立つころになると、片子を持ちはじめる。つまり、生殖腺発達の兆《きざし》を現わすのだ。生殖腺はからだの栄養を吸収して肥え育ってゆくのであるから、腹の卵子が大きくなればなるほど、鮎の肉は痩せてゆくのである。肉痩せ、性に疲れた鮎がおいしかろうはずがない。
鮎は、川筋やその国の気候風土によって少しの差はあるが、一体に六月中旬から八月中旬までの夏のさかりに漁《と》れたのを、至味としているのである。初夏の鮎は水鮎と称え、香気は高いけれど、肉にこくがない。されば、私ら釣り人は夏のさかりに、好んで鮎を釣るのである。さりながら、私は名ある鮎の川を耳にすれば、季節を忘れてそこへ旅する慣わしを持っている。このたびの、小国川への釣り旅もそれであった。
鈎に掛かる鮎はいなかったが、簗《やな》に落ちる鮎はいた。簗に落ちる鮎を手にしてみたところ、陽気のためかまだ肌の艶が若々しかった。羽州の人々が自慢するように、頭が小さく胴は太く長く立派な姿であったのである。ちょうど、私がかつて世に紹介したことのある飛越国境に近いおわら節が有名な八尾町の奥、神通川の支流室牧川の鮎に似て、良質の岩石から湧く麗水に育ったかを思わせた。だが、既にもう秋の鮎である。あの、味品にまとう香気が抜けていた。肉の量は薄く抱卵は腹に一杯であった。これが盛暑の候であったなら、どんなに味品高い鮎であったろう。
羽前と羽後の国境の岩山から滴りでて、新庄の町の西北を流れる鮭川へも行ってみた。この川には、まだ数多い鮎がいた。そして、よく囮《おとり》釣りに掛かるのを見た。けれども、この川の鮎には気品が乏しかったのである。肉がやわらかで、肌の色に清快を欠いている。もちろん、食味は上等とはいえない。
鮎が立派でないのは、この川の姿が物語っているのである。小国川と異なって鮭川に沿う地方には水田が多い。水田の落ち水を集めて下《くだ》る川だけに、流れる水が麗明とはいえないのだ。ここに育つ鮎は、誰が見ても高尚であるとは考えられないと思う。
それに、川底に転積する玉石も小さい。また岸の崖に、泥炭の層が露出していた。鮎は、炭粉をことのほか嫌うのである。磐城の国には、幾本もの渓流が太平洋へ注いでいる。そして、どの川にも鮎が多い。ところが磐城の国の川の上流には、石炭の層が幾重にも断続していて、そこから流れ出る炭粉のために、鮎は香味の気品を備えぬのである。鮭川の鮎もそれと同じであった。
私は、小国川と鮭川を辞してから、さらに酒田港へ海釣りの見物に行った。土地の人々の話によると、酒田の町にはいま二、三千人の釣り客がいるそうだ。しかし、酒田に釣りが盛んになったのは、今はじまってのことではない。遠く幕末の頃から、鶴岡の酒井藩の風を学んで町民が競って竿を担ぐようになったのであるという。まことに、興深い話である。
酒田港は、出羽の名川最上川の河口にある。遠く海に突きだした突堤が、二、三千メートルもあろうか。その突堤の上に、夜となく昼となくいつも二、三百人の釣り客が竿と糸とを操っている。これから次第に秋深み、黒鯛の当歳子と鯔《ぼら》の釣季に入れば、銀座の石畳の道を彷彿とさせて壮観であるそうだ。千人にも余る釣り人が幅狭い堤上を右往左往して随所に竿と糸が乱れ争い、その雑踏は身動きもならぬほどであるという話であった。
ちょうど、私が堤防の突端まで行った日は、釣りものの少ない季節であった。僅かに小型の縞鯛、小けいづ、さより、沙魚《はぜ》などばかり釣れるもので、釣り人はいずれも竿を投げうち、腕を拱《こまね》いて不漁を歎じていた。
河口の風景は素晴らしい。沖の飛島は、低い空を行く雲に遮られて見えなかったが、北の空に高い鳥海山が長い裾を東西に伸ばしていた。山の肌はまだ蒼《あお》い。腰の辺りに幾とせ消え残る万年雪が、まだらに白く秋陽に輝いていた。河口には、左にも右にも遠く白砂が続いている。白砂が陽炎《かげろう》に消えた西南の果てには、賀茂の港や湯野浜あたりの山々が、遙々と紫色に並び立った。淡島や佐渡ヶ島は、悠々と海霞の奥に眠っているのであろう。眼に見えぬ。
ここの釣り人は、竿の調子に微妙な関心を持っていた。穂先はやわらかで、胴に調子を保ってしかもねばりのある竿を好むのである。それは、庄内地方特産の唐竹の根掘りで作るのであるが、少し重過ぎるきらいはあるとはいえ、魚が鈎をくわえてからの味は、満点であった。
ここの人が使う手網は、美術品である。枠は竹を削ってはぎ合わせ、それを漆で塗りかためたものだ。網は、絹糸の一分目である。私は、その小型のものを酒田の釣友本間祐介氏から、記念品として贈られた。
羽州の旅数日、いつの日も地米の飯に恵まれた。豊かな幸福を感じたのである。これは庄内平野が広々としてあるおかげであろう。その平野を横ぎって、私は湯野浜温泉に一宿した。電車の窓から、既に刈り取られた稲田の畦に、
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