上京し、報知新聞社へ勤める決心をした。

  三

 編集局へ入って行ったところ、誰も私に言葉をかけてくれる者がいない。しかし、私はそんなことには平気である。
 見ると、もと私の机であったところに知らぬ若い記者が座っている。
「君、ここは僕の机だよ、どいてくれ給え」
 と、いうと若い記者は驚いて私の顔を見上げた。
「分からんね君は、ここは僕の机なんだよ」
 こう荒々しくいうと、若い記者は怪訝な顔して露台の方へ出て行った。
 そこで私は、その机へしがみついて動かばこそ。誰も相手にしなかろうが、冷たい眼で見ようが関せずと構えて、朝はほかの記者の出勤前から夜半は組版が下のステロ場へ下りるまで頑張った。
 それまで見て見ぬ振りしていた村上編集局長が、ある日私の前へきて、
「君、君はもう社をやめたのじゃなかったのかね」
 と、まことに静かにいうのである。
「いえ、僕はやめません。辞表をだしたことはないと思います」
「そうかね、でも君は社の方ではやめたことにしてあるがね」
「そうですか、でも私はまだ解職の辞令を受け取っていません」
「そうだったかね」
 こういって、村上さんは自分の室へ行ってしまった。
 そうこうしているうちに、幸徳秋水の大逆事件の検挙がはじまった。編集局は猫の手も借りたいほどの多忙である。
 そのどさくさ紛れに、私はまたもとの報知新聞記者になったのである。



底本:「『たぬき汁』以後」つり人ノベルズ、つり人社
   1993(平成5)年8月20日第1刷発行
入力:門田裕志
校正:松永正敏
2006年12月2日作成
青空文庫作成ファイル:
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