いうであろうと考えて、興味をもって村上さんの顔を見た。
「お待ちどうでした――それでは、明日から出社してください。えーと出勤時間は十時前後でよろしいでしょう。それで所属ですが、とりあえず社会部にして置きましょう。分かりましたね、明日からですよ。では、失礼」
それだけいったら、村上さんは室から出て行ってしまった。
私は、あっけに取られて、ぼんやりしたのである。新聞社というところは、なんと不可解のものである哉と思った。
私は喜んで、途中で想いだし笑いをしながら丸の内の野っ原を歩いて、駿河台の南甲賀町の下宿へ帰った。
二
入社してみると、社長が箕浦勝人、社主が三木善八、主筆は須崎默堂、編集局長村上政亮などという偉い人物ばかり。中堅から少壮記者には五、六年前まで京成日報の社長であった高田知一郎、いま進歩党の幹事長である田中万逸、元AKの放送部長煙山二郎。趣味方面には相撲の生駒※[#「皐+羽」、第3水準1−90−35]翔、美術の佐瀬酔梅などという錚々たる記者がいて、なにがなんだかただ眼が眩んで仕事のことなどさっぱり分からない。
現在小説を書いている矢田挿雲、野村胡堂、料理屋通の本山荻舟、朝日新聞の前重役原田讓二などという記者は、私よりいずれも二、三年おくれて入社してきたのであった。野球の飛田忠順などまだ早稲田の学生で、小遣い稼ぎに報知新聞の野球記事の嘱託をやっていて、夜になるとスコアーブックを持って編集局へやってきた。いつもあまり、新しくない紺絣の着物を着ていたと記憶する。
私が入社した五、六年は、まだ大隈伯が頗る元気で、毎年暮れになると社の会議室へ姿を現わし、社員を集めて一場の訓話を施す例になっていたが、大隈さんが来社するほんとうの用向きは、報知新聞から毎年定まって贈るところの金十万円のお歳暮を取りにくるのであるという話であった。
中堅記者は、誰も彼もが飲む、買う、喧嘩の猛者であった。私は、入社前までは虫も殺さぬ順良な青年であったのであるけれど、純美な花蓮(?)もとうとう、見よう見まねで泥水に染まってしまった。
とうとう身を持ち崩した果てに、社を無断でずらかってしまったことがある。
故郷に帰って一年半ばかり暮らした。しかし、いまさら百姓になったところで、うまく米を作れるわけではなし、村役場の書記で一生通したのでは、まことに心細い。
そこで私は再び
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