でいるのだ。日暮れ前は餌が水面下三尺ほどの位置に、日没前後には水面下一尺ほどのところにあるように、錘を加減するのを忘れてはいけない。
 鱸が鈎を食い込むと、竿先を水中へ引き倒すのではあるまいかと思うほど、強引に引っ張る。そのときは、もう向こう合わせで掛かっているのだ。これを見たら、いきなり水中へ飛び込んで、竿を引き抜き、そのまま河原へ駆け上がってから、道糸を手繰《たぐ》り寄せ、手網は使わないで、遮二無二河原へ鱸を引っ張り上げるのである。まあ、夕方一刻にこの釣り方で大鱸の五本や六本を釣り上げるのは、大した骨の折れることではない。季節は、夏の土用に入ってからがいいのだが、土用にはまだ一ヵ月も間のあることだから、そのとき改めて案内しよう。と、いうのである。
 その後、その役人に会ったときは、もう夏の土用に入っていた。ちょうど季節がよかろうから、一度、手を取って釣り方を教えて貰いたいと申し込んだところ、いや案内したいのは山々であるが僕はいま腹の具合を悪くしていて、残念ながら川へ出られない。けれど先日説明した通りにやれば、釣りに心得ある人ならば釣れるから、やってご覧なさい。と、いう情けない言葉だ。
 やむを得ない。然らば、一人で行って試してみようと決心した。その頃、ちょうど故郷から老父が訪ねてきていた。そこで、このことを相談すると、それだけ説明をきいていれば、自分の思案でやれぬことはない。そこが釣り師の勘というものだ。わしも、いっしょに行ってやるから、きょうこれから直ぐ那珂川へ行き、大いに大鱸を釣ってやろうじゃないかという次第になった。
 釣り場は、水戸市から一里ばかり上流の国田渡船場の上手の落ち込みである。現在の水戸上水道の水揚げ場から、七、八町上流だ。竿二本と仕掛けを作り上げ、ひる少しまわったころ釣り場へ着いた。教えられた通り渡船場の付近の捨石や沈床の間を覗いてみると、川蝦が静かに泳いでいる。鳥の羽根で手網へ追い込んだところ、三時間ばかりの間に五、六十尾の蝦が捕れた。
 まず、一服である。父子二人で河原の砂の上へ腰を下ろして釣りの楽しさを話していると間もなく夕方の四時近くなった。ところで、なに心なく眼の前の浅い水面をながめると、役人が言った通り蝦や小魚が、水面から跳ね上がって逃げまわっている。いよいよ、鱸の活動がはじまったなと思った。万事、教えられた通りに竿を瀬の真ん中にさし込み、長い道糸を瀬の落ち込みへ流してやると、道糸が張った途端に、もう凄い引き込みだ。
 竿先が、折れるのではあるまいかと思うくらいの強引だ。私は竿を引き抜くと、それを後ろ向きに肩に担《かつ》いで、河原へ向かって駆け上がった。そして、河原の小石の上を二十間ばかり走ったところが、鱸は頭を横に振り鰓洗いをやる暇もなく、そのまま河原へ引き摺り上げられてしまった。父は、直ぐ鱸のそばへ走って行って、上から茣蓙《ござ》をかけて押さえつけた。
 それは、一貫三百五十匁の大鱸であった。それから入れ食いの連続だ。夕方、手もとが見えなくなるまで五、六百匁から一貫目前後の鱸を十五、六本釣ったのである。付近の農家から、太い竹の棒を一本貰ってきて、それに吊るし、二人で水戸まで担《かつ》いで帰ったのである。
 こんな鱸の大漁は、はじめてだ。その後、東京湾口の落ち鱸釣りに、それ以上の数を釣ったことはあるが、落ち鱸は食味が劣っているから、盛期の川鱸釣りの興趣に比べれば、まるで問題にならない。私の父は、若いときから鮎釣りにたんのうで、随分大漁したことがあったそうだ。しかし、大ものをこんなに釣ったのは、生まれてはじめてだと言って、相好を崩して喜んだ。親の、喜んだ顔を想いだすのは、まことに楽しいものである。
 最近きいた話であるが、かつて幸田露伴翁も那珂川で鱸の大釣りをやったことがあるそうだ。場所は、水戸市下市の汽船発着場の下手らしいが、小舟の胴の間一杯釣ったらしい。それは、もう二、三十年前の話であろう。そのころは、ずいぶん那珂川に鱸がいたものと見える。露伴翁は、餌に袋イソメとイトメを用いたと言う。
 那珂川では、いまでも国田渡船場の上下から、上流の阿波山村地元まで、川蝦の餌で盛んに釣れているのである。



底本:「垢石釣り随筆」つり人ノベルズ、つり人社
   1992(平成4)年9月10日第1刷発行
底本の親本:「釣随筆」市民文庫、河出書房
   1951(昭和26)年8月発行
初出:「釣趣戯書」三省堂
   1942(昭和17)年発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2007年5月5日作成
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