みようということになり、いずれも小型のやせた鮎を四、五尾ずつ釣った。その帰途、岩淵駅で下車し富士川橋の宿へ帰る道中で、私は大怪我を負った。ちょうど、野間清治の別邸の前である。私は夕闇の東海道を西から東へ歩いて行くと、暗の中から自転車が恐ろしい速力で走ってきて私に衝突した。私は路上へ突き倒されると、横になった私の体躯の上へ、人間が乗ったまま自転車が、もろに倒れ覆うたのである。
 倒れると同時に、身体全体に痛みを感じたが、起き上がろうとすると右足が自由にならない。夕暗をすかしてみると、脛《すね》の正面の稜骨《りょうこつ》の右側の間に、嬰児《ようじ》の口よりも、もっと大きな口が開いている。自転車のどこかに付いている金の棒が、やわらかい肉に突きささり、そして掻き割いたらしい。

   八

 すぐ東京へ帰って医者の治療を受けた。医者は、全治するまで絶対に水に入ってはならぬという。
 十日ばかり、東京に辛抱していたけれど、辛抱がならぬ。鮎の姿が、ちらちら眼の前を泳ぎまわって、追っても払っても、敏捷な姿を現わす。
 娘を、看護婦代わりにして、医者から貰った膏薬《こうやく》や繃帯を携えて、跛《びっこ》ひきひき富士川へ引き返したのである。全治するまで絶対に水へ入ってはならぬ。と、いった医者の言葉は、私の釣り修業にとって求めても得られぬ天恵の戒律《かいりつ》であると思った。
 若いときから長い間、私は足を水に浸《つ》けねば友釣りをたんのうしたような気持ちになれないできた。つまり、川の水に足を浸《ひた》しながら釣ることが、友釣りの欠くべからざる条件ででもあるかのように、無意識に私をそうさせてきた。永い年月の習慣が、私の気持ちを支配してきたのである。
 しかし、それではまだ一人前の友釣りには達しておらぬのだ。絶対に足を濡らしてはならぬというそんな偏した規律はないけれど、水に足を濡らさないで釣れる場所でもあったならば、ことさらに流れに足を入れぬでもよかろう。また一歩足を水に入れねば思う壺へ竿先が達し得ぬというのを知りながら足を濡らしてはならぬという掟に囚《とら》われて、無理に丘の石の上に立つのもおかしいものだ。無理のない釣り姿、これが釣りの極意であろう。
 ところが、私の友釣りは流れに立ち込まねば気がすまぬ。その場合における必要、不必要などから離れて私は釣り場へ行くと、流れに立ち込む癖がある。それは、はしたなき釣り癖であることを、よく私は反省している。だが、水に向かうと、我れを忘れて水に浸るのである。私は、幾年この悪癖と闘ってきたか知れない。しかし、今もってその癖を正しきに導き得ぬ。
 全治するまで絶対に、傷を水に濡らしてはならぬ。この戒めを得たのは、もっけの[#「もっけの」は底本では「もつけの」]幸いである。自分の心で、自分の悪癖を正していけないとすれば、他から与えられた動きのとれぬ条件を用いて、目的を達したらよかろう。ようし、我が輩はこの足の傷が全治するまでの間に、不必要な場合の水浸りの癖を正してみようと考えたのである。
 好きな道楽には、医者の戒めを利用か悪用かして、理屈をつけ、自分の田に水を引き、老婆が引き止めるのも顧みないで、娘を供に痛む足を引きながら、またまた富士川へ繰りだしたのであった。
 そもそも、私は上州の利根川の上流の激流の畔に育った。利根川は水量が豊かに、勾配が急に、川底に点在する石が大きく、名にし負う天下の急流である。峡谷と淵と河原と、あちこちに交錯して、六間も七間もある長い竿をふるったところで、狙う場所へ囮《おとり》鮎が達せぬ場所が多いのである。であるから、強力の釣り師は六間以上の長竿、非力の者でも四間半から五間もの竿を握り、なおその上に激流の中へ、胸あたりまで立ち込んで釣る慣わしが、利根の上流にはある。それが、人々の慣習になって、立ち込まぬでもよいのに、水へ浸る癖を人々が持つに至ったのだ。
 私も、その一人であった。

   九

 もっぱら、足を濡らさぬ修練を積むことにした。東海道の汽車の鉄橋のしも手に、浅い瀞場がある。深い場所でも、浅い場所でも、瀞場で鮎を掛けるということは、一応の修業をつまぬとうまくは行かぬものだ。
 私は、この場所の条件についてはよく心得ており、既に二、三回友釣りを試みて成績をあげているのである。そこで、娘とならんで足を濡らさぬように水際に近い石の上から釣ることにした。
 娘は友釣りの竿を持つことはこの日がはじめてである。鮒釣りには数回の心得があるが鮎釣りはこれが入門だ。竿を持たせる前に、友釣りについての心得をさとした。お前は、きょうが入学日だ。鮎の習性や、囮鮎の泳がせ方、竿の長短に対する得失、糸の太さ細さ、錘《おもり》の有る無し、囮鮎の強弱、流れの速さ、水の深さ、底石の大小、水垢の乗り塩梅《あんば
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