、私を労《いたわ》り励ましてきた。よく、貧乏に堪えた。そして、愛を護ってきた。
 ところが、突然私らの魂に熱湯を注ぎかけたような事件が勃発《ぼっぱつ》した。それはみゑ子が、女学校二年、十五歳の暮れのできごとであった。第二学期の試験が済んで、暮れの二十五日の朝、みゑ子は学校の終業式へ出て行った。ところで、みゑ子はいつも学校がすむと道草食うことなどなく直ぐ家へ帰ってくるのであるけれど、その日に限ってみゑ子は、冬の陽が暮れかかる頃まで、家へ姿を見せなかった。家内は、明日から冬休みに入るのであるから友達の家へ遊びに寄ったか、それとも自分の里方である学校から一里ばかり離れた村の方へ行ったか、あるいは妹の嫁ぎ先の家へまわったかも知れない。だから大して心配するにも及ぶまいが、それにしても平素無断で他へ立ち寄ったことのないみゑ子が、きょうに限って無断で帰りが遅くなるというのは、ちと変であると思った。
 夕飯が済んで、夜の九時になっても帰ってこない。家内の胸は、次第に騒がしくなった。ある幻影が、魔のように一瞬、頭の一隅を掠《かす》めて過ぎた。日ごろ――あるいは――と悩みの種となっていたことが、現実の姿となって行なわれているのではないか、と思いめぐらすと、いてもたってもいられない気持ちになった――いや、そんな馬鹿なことはない――と、自分の妄想を打ち消してみるが、打ち消しても打ち消しても、妄想は後から後から霧のように湧き上がってきた。
 しかしただ、心強いことはみゑ子に対する信頼である。家内がみゑ子を信ずることは絶対であった。あの子は決して心を変える子ではない。どんな誘惑があっても、何処《どこ》へも行く子ではない。こう考えると、自分の心配が愚かのように思えるけれど、次第に夜は更けて行くが、みゑ子はさっぱり帰ってこない。
 家内は、十時ごろになってから隠居所にいる老父を起こして、みゑ子の帰ってこないことを話した。そして、もしかすると京都から盗みにきたのではないでしょうか、とつけ加えた。ところが老父は家内に、わしは何も知らない。京都から盗みにきたかどうかなどということは、もちろん知らない。だが、どの親も子を思う心は同じだろう。わしにしたところが、京都にいる娘も可愛いし、お前の良人である伜も可愛い。親の心は誰も同じだ。ところで、みゑ子のことは大して心配しないでもいい、とわしは思う。夜が明けたら落ちついて捜すがいい。わしは眠い。寝る。
 こんな謎のような言葉で、老父は家内をあしらったのである。家内はとりつく島がなかった。そこで家内は、夜道を一人の婢を連れただけで、里方の方へ尋ねて行った。しかし、そこにはみゑ子の姿は見えなかった。がっかりした。里方から、妹の嫁ぎ先へ電話をかけて様子を尋ねた。すると妹が電話口へ出て、それはご心配ですね。ですが、私のところへはきていません。それにしても、この夜半では何とも致し方がないでしょう。夜があけてから、ゆっくり心当たりを訪ねることにしたら、いかがでしょう。という挨拶であった。家内は眼を赤くして家へ帰り、一夜一睡もしないで、陽が昇るまで待ったが、みゑ子はとうとう帰って来なかった。

     五

 そのころ私は、ある会社の創立のために町の方の旅館に滞在していた。早朝、顔色蒼白となった家内は、私の部屋へ転げ込んだ。しばし、口がふるえて言葉が出ぬありさまであった。家内は気が落ちついてから、充血した眼を輝かして、昨夜からの顛末《てんまつ》を語ったのである。
 私は、暗然とした。
 その日の午後、警察署へ捜索願を出すと同時に、京都に電報で照会してみた。すると、たしかに当方にきているから、気遺いはいらぬ、という返電があった。それからもう、みゑ子はわが家へ帰らぬ子となった。
 家内は失神したようになって、それから一ヵ月ばかり床の中の人となった。訳ある子二人を育て、わが子を三人産み、貧苦と闘い、浪費癖の良人を護りながら、義理と人情の路に立って、ついに自他一如の心境に達していた家内は、報われなかった。
 日ごろ、家内の心を知っていながら、何の感謝の意を言葉の上に出さないできた私は、この事件に際しても、慰めの言葉が口から出なかった。
 姉の、わがままが、こういうことを引き起こしたのであろうが、結局は私の不徳、つまり私の貧乏がこんな羽目に導いたのではないかと思う。私は、家内の心を哀れに見た。
 京都の姉は昨秋、義兄は今春他界した。事件以来私は義絶していたのだ。今年の初夏のころ、みゑ子は突然、東京の私の家を訪ねてきて、玄関で泣き崩れた。お母さん、堪忍してくださいとひとこと言ったまま、長い間畳の上に歔欷《きょき》していた。
 私は、みゑ子から、みゑ子が学校から帰り途に連れだされた日の模様を、訪ね聞く気持ちになれないでいる。なんとなく腫れものに触る
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