し》と白頭山節には感服した。哀調を帯びたアリラン節に魅せられたのは勿論のことである。
尹玉川と白蓮紅の二人は、若くて、そして美人であった。皮膚が練絹《ねりぎぬ》のように細かくやわらかであるから、白粉《おしろい》の乗りがいい。爽やかな眼を大きく張って、この二人も明るく唄った。
韓晶玉は、絵筆を色紙の上に揮った。濃淡の墨痕に七賢を描き出したのだが、内地でいえば、いやしい芸妓にもひとしい稼業であるのに、よくもこんな技まで習ったものかなと、驚いたのである。
妓生は芸妓とひとしいというけれど、少しも借金を背負っていないのだ。流行妓になると三、四万から十万円位貯蓄しているという。妓生学校へ入学するには、人物試験と身元調査が厳重に行なわれる。だから下層民の娘は入学できないのである。良家に育ち、厳重な校規の下に教育を受けて卒業すると、そのまま誰に抱えられる訳ではなく、女の一つの立派な職業として旗亭《きてい》の招きに応じ客に唄と舞を供する。勿論、酌もするのだ。
お牧の茶屋の収穫は、妓生の美しさばかりではなかった。川魚料理である。カルユイ(小蟹)、ソガリ(鰍魚)、フナ、ヒガイ(鰉)、ドジョウなど、いずれも眼下に眺める大同江の水から漁《と》ったものだそうだ。
鰍魚という魚は、いままで人の話や書物などで知っていたが、実物を見て、そして味わうのはきょうがはじめてである。この日、私らの目前に運ばれたのは、長さ一尺七、八寸、目方は六、七百匁もあったろうか、全体の姿がスズキによく似ている。殊に、下あごの突き出ているところはスズキにそっくりである。背びれがいかめしく、うろこが細やかである。それに塩を振って丸焼きにしてあった。肉は淡白で味わうと、一種の濃淡が舌に残った。スズキよりもおいしい。胆《きも》は皮ハギのそれに似てそれよりもおいしく、腹の卵粒も珍賞に値《あたい》したのであった。
小ガニは、小豆ほどの大きさである。そんなに小さいながら親ガニであるそうだ。それに薄く衣《ころも》をつけ、空揚げにした味は酒席の前菜として杯の運びをまことによく助ける。私らは、ほんとうに賞喫したのである。フナとドジョウとヒガイは内地のものにくらべて、少しは劣ると思った。それは舌に淡い、いがら味の残匂をおくからであろう。
まだこの外に、サンチー(山至魚)という珍味があるのであるけれども、これは大同江の上流の六、
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