て言葉は勿論のこと目礼さえも交わさなかったそうである。それほど、十五代様と家達公とは仲が悪かったものであると語って、有章院の別当は笑ったのである。
 芝の霊廟は年に一度ずつ大掃除をした。この大掃除には、江戸川べりの行徳付近の百姓が人夫となってやってくる慣わしがあった。百姓は、モンペに似た短い袴を着けて、雑巾を両手に縁や閾《しきい》を這い回った。
 霊廟に、別当というのがついている話は前に書いた。増上寺は宗門の府であるというに対して将軍家は霊廟を特にお守りさせるために別に寺を建立したのであるが、これを別当と称した。であるから、別当は増上寺に対して独立している。芝の霊廟には別当が六ヵ寺あった。そのうち、七代有章院の別当瑞蓮寺というのが一番大きく、昔はいまの芝の正則中学校のあるあたりに二千坪の寺境を持ち、伽藍は百間の廊下を持つ建築物であった。将軍家から瑞蓮寺に対し、七千五百石の扶持と別に五千石の手当てがあった。
 そのほかに、諸侯からの付け届けや、袖の下がふんだんにあったから、別当は実に裕福であった。別当には、常に寺侍が勘定方を勤めていて住職自身は決して金に手を触れない。年に二回の霊祭の時に、将軍と増上寺の大僧正を霊廟へ案内すればいいので他に何の役目もなかった。であるから、年中用事がなく遊び暮らした。駕籠《かご》に乗っては江戸の市中へ繰り出し、遊びまわった。
 それでも、別当へは金が溜まってきて始末に困った。そこで、天下の諸侯に盛んに金を貸しつけることをはじめたのである。勝手元|不如意《ふにょい》の殿様は競って別当のところへ金を借りにきたのである。徳川中世以後は、まことに貧乏な大名が多かった。貧乏でないまでも、表面貧乏を装い幕府の手前をごまかすために、別当のところへ金を借りにくる大名がいくらもあったのである。
 有章院の別当瑞蓮寺は、昔の寺境から移って現在有章院の北側地続きにある。筆者はこのほど瑞蓮寺を訪れた時、住職の絲山氏からいろいろの宝物を見せて貰った。瑞蓮寺には昔から山のように、将軍家から下された宝物があった。明治になってから宝物、家具の払い下げをさせるに、整理人まで置いたほどであったという。いまでは大部分売り払ってしまったから、ほんの僅か残っているばかりであるというのであるが、それでも一ヵ月や二ヵ月では調べ終わるわけのものではあるまいと思われるのだ。
 数ある書き付けのうち、最も興味を惹いたのは、諸侯から入れた借金証書である。それが、箪笥《たんす》二棹に、ぎっしり一杯詰まっている。これを分類したら、よほど面白いものができあがるに違いない。試みに、一掴みの証書を取りあげて開いて見たら、そのうちに肥前唐津藩小笠原佐渡守から入れた金三百両の借用証書があった。これは小笠原長生将軍の先祖である。一城の主が、僅か三百両の金を寺から借りていることを思って、徐ろに微笑を禁じ得なかったのであった。

     藩侯の借金

 さらに、次へ繙《ひもと》いて行くと、三千両が庄内藩主酒井左衛門尉。百五十両が小笠原石見守。三百両が高梁藩主板倉伊賀守。金一百両が上田城主松平伊賀守。三百両が牧野伊勢守など。次から次へ読んで行けば、殆ど際限がないありさまである。
 庄内藩主酒井左衛門尉が金三千両を借用するために入れた証書の文句は、まことに厳重を極めている。金のためには、藩侯もペコペコものであった。

   預申金子之件
 一金三千両也 但通用金
 右者其御山御霊屋御年番御用御年金之内今般酒井左衛門尉就公務要用預被申候処実証也返済之儀者来辰三月三十日限り元金百両に付銀六十皿之利息相加へ元利共急返納可被為候尤も御霊屋御用御大切之趣左衛門尉具さに承知の上預申被公務相弁候上は仮令領分水害旱害等不及申其外公私に付如何の異変有之候共右日限の通聊か相違無返納可被申候且又連印役向之者臨時役替等被申候は引請候後彼立者早速御届申候為後証仍如件
 慶応三年九月
  酒井左衛門尉内金方[#地から3字上げ]竹岡半兵衛
[#地から3字上げ]郡代 正田弘右衛門
[#地から3字上げ]小姓頭 榊原隼人

 前書之通相違御座無候以上[#地から3字上げ]家老 松平権十郎

 増上寺御霊屋御年番念仏院宛[#地から3字上げ]引受 清光寺

 この証書でみると、大名の借金というのは下々《しもじも》の場合と異なり、預申金子之件と書くものであったらしい。借金するにも、大名の面目は忘れなかったものと見える。だが、辛《つら》いことには領内に水害があろうが旱魃《かんばつ》があろうが、そんなことにはお構いなしに返済するとある。また、公務の上にどんな間違いがあっても、借りたものは借りたものであるから日限に偽《いつわ》りはない、と固く契約している。清光寺という寺の口入れで酒井侯は霊廟の別当に近づいたのであるから清光
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