までも、食べやまない。結局一人で揚笊《あげざる》に山に盛った蕎麥切りを平らげてしまった。この量は私が食べた十倍はあるであろう。一体、腹のどこへ入るのか、胃袋の雑作はどんな風にできているのか、同座の連中名人の豪啖に悉くあきれてしまった。
漫画の麻生豊画伯が、貴公どんな具合か腹を見せないかというと、名人は胸を開いた。一同これをのぞき込んだが、別段大してふくれてもいない。いまの一笊はどこへ入っているのであろうと思う。
博士が、まだ一笊料理場の方にある筈だから、もう少しどうかな、とからかうと、
「もはや、叶わぬ」
と、呟いて、名人は横に手を振った。
文化十四年二月十三日に、江戸両国の柳橋に、大食競演会というのが開かれたことがある。これへ出席した選手桐屋五左衛門というのは、蕎麥五十七杯を食ったあとで、三合入りの盞で酒二十七盃をのんでから、めし三杯に茶九杯を喫し、さらに甚句を唄って躍りだしたという剛の者であった。次に、天保二年九月七日やはり柳橋万八樓で催した大食会では、市ヶ谷大原町木具職遠州屋甚七というのが、十六文盛りの蕎麥四十二杯を平らげ、御船方の国安力之助が三十六杯、浅草の神主板垣平馬が、同じく三十五杯。
十六文盛りの蕎麥というのが、どのくらいの量であるか分からないが、わが木村名人も文化、天保のころの仁であったならば、この競技会へ自信たっぷりで出場する力量があったにちがいない。
二
文化の大食会のときには、丸屋助兵衛というのが饅頭五十、羊羹七竿、薄皮餅三十、茶十九杯をあおってナンバーワンとなり、次席が三升入りの大盃に酒六盃半をのみ、続いて水十七杯をあおった鯉屋利兵衛、めし五十四杯を掻っ込み、醤油二合をすすった泉屋吉蔵という順序で見物人の胆を奪ったのである。めしの十五杯や二十杯、酒の三升や五升をのんだのは、ものの数ではなかったのであろう。
天保の、万八樓の会は壮観であった。入口に受付の帳場を設え、来会者を次から次へ住所、氏名年齢、職業を記入する。来会者百六十二人、受付の次の間には羽織袴をつけた接待役が十人、客を待ち受けている。なかなかの配慮である。
選手が受付を通過してくると、まず予選として膳に向かわせ、飯の高盛り十五杯と汁五杯を勧める。米は肥後の上白、味噌は岡崎の八丁味噌、出しは北国の昆布、椀は一合五勺はたっぷり入る大ものだが、選手として自らを任じて
前へ
次へ
全5ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
佐藤 垢石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング