ドブ釣も鮎の食欲につけ込んだものだ。友釣も結局は、食料問題に絡らませて鈎という罠を仕掛けたものだ。ゴロ引や、引っ掛けは別として鮎釣の正道を行くものは、食料問題を離れてない。殊に友釣に於ては、水垢の問題が大切である。ドブ釣でも水垢の研究は、ゆるがせにできない。鮎の最も好きな水垢が豊富に石についているにも拘わらず、毛鈎を下げればその鈎へ食いついて来る。これ等のことも、鮎自身でなければ判らぬ領分だ。といってて棄て置いちゃ、上手な釣人にはなれぬ。
 餌のことに疑問を持てば究りがない。その究りないところに深い興味がある。
 若鮎は原則として、岸に近いところを溯上するものである。沖上りをやることは甚だ稀である。岸といっても河原寄りを溯る。なるべく崖寄りを避けたがる。だから、鮎の上った道筋を見ると、稲妻形即ち千鳥形をしているのが普通である。そして、その通路の水際の石に水垢がついていれば、それをなめながら上って行く。汀の石に、小さな若鮎の歯跡がついているのがそれだ。
 友釣は、鮎の歯跡を見て釣れという言葉がある。だが、いつなめた歯跡であるかということが分らないでは、釣りにならない。鮎が幾十里という道程を、溯上しながら水垢をなめた跡を『上りなめ』又は『はたなめ』といっている。これは、汀の石に小さな笹の葉のようななめ跡が、縦横に錯綜しているから直ぐ分る。いかにも通りすがりに、急がしそうになめた歯跡である。
 しかもこれは、鮎が好んで岸近いところを溯上する習性を物語るもので、『はたなめ』の呼称が生れた所以である。『はたなめ』を『居付なめ』と間違ったら鮎は釣れない。
 この川に鮎がいるか、いないかを確かめるにはなめ跡を見るに限る。ところが汀に近いところに、なめ跡があるからこれはたしかに鮎がいると思い込んで、釣ったところで掛るものではない。鮎は、そのなめ跡の付近にはいない。遠く上流へ溯上している。水垢を見ることに研究のつまない人は、『はたなめ』を『居付なめ』と誤認するものであるから、そこはよく注意せねばならないことだ。そして、溯上の道中にある鮎は、たとえ水垢についていても、居付鮎のように活発には争闘をしないものである。忙しく次から次へと溯上してしまう。
 そこで『はたなめ』の多い年は、鮎の当り年だ、ということができる。鮎の大群が汀を溯上する時は、必ず岸に近い石に口をつけて行く。『はたなめ』
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