城夫人が頼母木少年の逞《たくま》しい気魄に親しめないで、些細な落ち度を柄にとりお払い箱を喰わしたのであると伝える人もいるが、何れにしても頼母木は快い顔して葦城邸を飛び出したのではないのは事実らしい。後年このことを評して、葦城が頼母木の成人するまで面倒をみてやれなかったのは、遺憾であったと言った人があるけれど、この是非はとにかくとして頼母木を発奮させたのは葦城邸であるのは否定できまいと思う。
 そんなわけで、それ以来熊田邸と頼母木とは全く交渉なくなった。そのことがあってから幾十年、こんど久し振りで三途の川の対面である。互いの微苦笑が、頬の神経に細かい顫動《せんどう》を与えたことであろう。
 さて、星うつり物かわり昭和十三年の暮れ、野間清治のあとを継いで頼母木桂吉は、報知新聞の社長となってきた。新社長は、大晦日《おおみそか》に近いある晩、古い報知新聞の関係者数十名を会席に招待して、就任の挨拶をした。私も古い関係者の一人として招かれて行って頼母木の挨拶の言葉をきいたのだが、新社長が言うに、自分はいままで自分の生命として政治に、自分の力量のあるだけを尽くしてきた。齢すでに七十を越して、このうえ望むべき何もない心底であった。ところが図らずもこのたびある人から、報知新聞社長就任の慫慂《しょうよう》を受けたのである。つらつら報知新聞の現在の社業をみると、全く昔日の俤がない。自分も諸君と同じに、報知新聞の古い関係者である。そとにあっても、社業回復を望む念は一日もやまなかった。されば自分は、直ちに社長就任を快諾した。即ちこれは七十余歳の老骨に、死所を与えられたものである。死華《しにばな》であろう。これからは、この痩躯に鞭うって報知社再興のためには、倒るとも努力を惜しまないつもりだ。幸いにして諸君も社外にあり、主家再興の気持ちをもってこの老人を助けて貰いたい。と、いう意味の希望にみちた演説をしたのである。
 これを聞いて、来会者は悉く感激した。頽《すた》れゆく旧主家に、救いの神が現われたような気持ちがしたのであった。
 それから、翌春になって暮れに招かれた連中が相集まり頼母木新社長を招待し、感謝慰労の会を開いた。その席上でも、頼母木は自分は報知新聞社と共に討死するつもりである。と、壮心燃ゆるような演説をしたのであった。人々は、杯をあげて昂奮した。報知新聞社黄金時代の再来を夢みて、席上の
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