は万世のたのしみどころではない、苦しみであった。もしこの世に酒という水がなかったならばと怨んだことが幾度あったか数えられないほどである。
 そもそも私が、禁酒の念を起こしたのは二十四歳の春であった。契禁酒、と紙に書いて床の間にかけ朝夕礼拝したこともあり、自今禁酒の新聞広告をしたことさえある。けれど、ものの一週間と続いたためしがない。
 竹林の七賢の筆頭|劉伶《りゅうれい》は、かつて酒渇を病んだことがある。酒渇というのは、いまの酒精中毒のことであろう。それでも、女房の顔さえ見れば『酒を出せ、酒を出せ』とせがむのだ。細君は劉伶の身を案じて蔵に入れて置いた酒を棄て、夫君鍾愛の酒器を毀してしまった。そして泣いて諫《いさ》めて言うに、何としてもあなたは大酒すぎる。これは、決して摂生の道ではありません。どうぞ、禁酒を断行してください、と貞節のほどを示したのである。すると劉伶は、にっこりと笑って妻君に向かい、よく分かった。けれど、俺は意志薄弱で自分の心だけでは、禁酒の契を実行できそうもない。そこで考えたのだが、鬼神に自分の必を契って酒を断つのが、一番いい方法だろう。それには、鬼神に酒と肉を供えて礼を尽くす必要がある。善は急げだ。お前はもう酒を棄て酒器を砕いてしまったのだから、何処かへいって酒肴を買ってきてくれ。と言った。細君は、夫が自分の言葉をきいてくれたのを喜んで、いそいそと出ていって買ってきた。ところが劉伶は、その酒と肉を鬼神には供えないで自分の前へ供えてしまった。そして、跪いて祝詞を唱え、天劉伶を生む、酒を以て名を為す。一飲一斛五斗にして醒を解す。女の言葉など慎んで聴くものじゃない、と言って破顔一笑。仍《すなわ》ち酒を引き肉を御し、隗然《かいぜん》たるのみ。復た酔う矣。
 こんな話が、太平御覧という書物に書いてある。私は劉伶をまねて自分を偽るのではない。やはり、薄志弱行のために禁酒が続けられないのだ。必の契りを破るたびに、劉伶の話を思い出し百万の味方を得た感を深うするのである。

     五

 慶安三年の五月ごろ、酒井雅楽頭の侍医で武州江戸大塚に住んでいた樽次こと茨木春朔と、やはり武州池上新田に住する池上太郎右衛門底深という人と酒合戦を行なったことは、茨木樽次が戲書『水鳥記』に詳しく書いてあるので誰も知っている。慶安のころであるというと、この酒合戦には一升六十四文から、百三十文位の値段の酒を用いたのであろう。
 茨木春朔の墓は、小石川戸崎町瑞鳳山祥雲寺にあり、正面に不動の立像を刻し、左に法名は酒徳院酔翁樽枕居士。左に辞世の二首、
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皆人の 道こそかわれ しじの山 打ちこえみれば おなじふもと路
南無三ぼう 数多の樽を 飲みほして 身はあき樽に 帰る古里
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 と、いうのが刻んである。台石の蓮花の中に、延宝八庚申正月八日とあるのは、この碑を建てた日である、と※[#「竹かんむり/均」、第3水準1−89−63]庭《いんてい》雑録に載っている。戸崎町は、私の陋屋《ろうおく》から遠くはない。近く小春日を選んで、祥雲寺に我ら酒徒の大先輩の墓を展し、礼を捧げたいと考えている。
 蜀山人の書いた『酒戦記』の事実は、江戸北郊千住宿六丁目に住む中屋六右衛門という人の隠家で、文化十二年霜月二十一日に行なわれた酒合戦の模様を描写したものである。この酒合戦に集まったもの一百余人。中には、狂花(腹立上戸)、病葉(眠り上戸)、酒悲(泣き上戸)、観場害馬(理屈上戸)などもやってくる。席に、宮島盃(一升入り)、万寿無彊盃(一升五合入り)、緑毛亀盃(二升五合入り)、丹頂鶴盃(三升入り)をならべ、干肴は台にからすみ、花塩、さざれ梅、また、別の台には蟹と鶉《うずら》の焼鳥を盛り、羹《あつもの》は鯉の切身に、はた子を添えた。
 この戦果を検すると、新吉原中の町に住む伊勢屋言慶という老人が三升五合余りを飲んだ。馬喰《ばくろ》町の大阪屋長兵衛という四十男が四升余り、千住かもん宿の方からきた市兵衛と名乗るのが、万寿無彊盃で三杯飲んだというから合計四升五合。やはり千住の松助は、宮島盃、万寿無彊盃、緑毛亀盃、丹頂鶴盃など一通り飲み干したから都合八升。
 はるばる下野の国小山から参加した作兵衛というのが七升五合。浅草蔵前の左官蔵前正太が三升。新吉原の大門長次というのは水一升をまず飲んで、次に醤油一升は、三味線で拍子をとらせ口鼓をうちながら飲んだという。千住掃部宿の天満屋五郎左衛門は四升。
 女猩々も参戦した。江の島で酌女をつとめ、鎌倉|界隈《かいわい》では名うての豪傑おいくとおぶん、天満屋五郎左衛門が女房おみよの三人は一升五合入りの万寿無彊盃を傾けて酔った風もなく、千住の菊屋おすみは二升五合入りの緑毛亀盃をグイと飲んで、うわばみ振りを発揮した。
 料理人の太助というのが三升入りの丹頂鶴盃の縁から、すうっと吸い込み、会津の旅人河田と名乗るのが万寿無彊盃から緑毛亀盃まで三通り合計七升を平らげ、丹頂鶴金に及ばなかったのが残念であった、と宙に向かって息を吹く。大長という男は四升余りを飲み尽くして近所に寝ていたが、次の朝、辰の刻ごろに眼をさまして再び中屋六右衛門の隠家へやってきて、きのう会った人々に一礼をなし、そこでまた一升五合飲んで家へ帰ったという。

     六

 日本の酒合戦は、遠い昔から行なわれている。いまから一千余年前、醍醐天皇の延喜十一年六月十五日、折りから盛夏の候であった。太上法皇は水閣を開いて、当時天下に聞こえた酒豪を招いて醇酒を賜わったのである。けだし禅観の暇、法慮の余、避暑の情をやり、選閑の趣を助けたというから、随分風流に寛《くつろ》いだ催しであったに違いない。
 けれど、ご招きに応じた者は甚だ少なかった。参議藤原仲平、兵部大輔源嗣敬、右近衛少将藤原兼茂、藤原俊蔭、出羽守藤原経邦、兵部少輔良峰、遠視左兵衛佐藤原伊衡、平希也など僅かに八人であったのである。何れも当時無双の大上戸で、四海でその名を知らぬ者とてなかった。酒を飲んで石に及ぶと雖《いえど》も、水をもって沙《すな》を濯《そそ》ぐが如き者であったというのであるから、浴びるほど飲んでいたのであろう。
 一同顔が揃うと宴席に勅令が降《くだ》った。大杯の内側に墨で線を描き、増さず減ぜず深浅平均。これを二十杯ずつ回し飲みにして、雄を称せよ、という御意であったのである。そこで、諸豪は何れも口を任せ、競うて呷《あお》りつけた。ついに大杯が、一座を六、七巡に及んだ。すると、大いに酩酊した。東西も分からず、ふらふらとなってしまった。そのうち一番ひどかったのは平希也で門外に潰《つぶ》れて動けなくなった。次に降参したのは藤原仲平で、殿上に小間物屋開店に及んだ。他の連中にも我にして我にあらず、泥之泥也。
 中には、舌が縺《もつ》れて口がまわらず、鳥が囀るような声を出すのもある。藤原経邦の如きに至っては、はじめ快飲を示していたけれど、とうとう心身共に蓬《ほお》けてしまい、げろを吐いて窮声喧々という有様だ。ところが、この厳しい合戦にわずかに態を乱さなかったのは藤原伊衡一人で、法皇からご賞詞があり、褒美として駿馬一頭を賜わった。けれど、御意の二十杯には達せず、その半分の十杯を飲んだだけで、後は、
『もはや、叶わぬ』
 と、掌を横に振った。時に漸く夏日暮れんとし、笙歌《しょうか》数奏。豪勇ども各々|纏頭《てんとう》、這うようにして帰った――
 このころの、酒の価についての文献は見当たらぬ。もっとも、この酒合戦は雲上で行なわれたことであるから、酒の値段など詮議しないでもよろしかろう。
 正体なく酔い潰れたのを泥之泥という。肥前の唐津では、酔っ払いのことを『さんてつまごろう』と称えるが、これはどういう意味であろうか。大阪で『よたんぽ』というのも分からぬ。
 私は、この年輩になってもまだ泥のように酔うので困る。体力が次第になくなるので、これから先は一層酒に対してこたえが無くなるのではないかと思うと、ほんとうに心細い。稗官小説に――南海に虫ありて骨なし、名づけて泥といふ。水中に在れば則ち活き、水を失へば則ち酔ひて一堆の泥の如し――と書いてあるが、この虫は岡へ上がった河童と同じように、水から離れると正体を失ってしまうものと見える。私も酒を飲んでいる時の方が、機嫌がいい。だが劉伶と同じように既に酒渇を病んでいるのでは、堪らぬと思う。
 万葉の歌人大伴旅人は、
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なかなかに 人とあらすは 酒壺に[#「酒壺に」は底本では「酒壼に」] なりてしかも 酒に染なん
[#ここで字下げ終わり]
 と、詠った。嗚呼《ああ》[#「嗚呼」は底本では「鳴呼」]、われ何をか言わん。

     七

 細川家に、増田蔵人という六千石を領する重臣があった。これは若い時から身持ちが悪く、いつも酒ばかり飲んで放埓《ほうらつ》であったから、父の某は臨終に家中の井戸亀右衛門を枕頭に招き、わが死後は伜の行状を厳重に監督してくれ、とくれぐれも頼んで息を引きとった。
 それから、亀右衛門と蔵人は殊のほか眤懇《じっこん》になった。亀右衛門はもと丹後の小野木縫殿助の家来で、忍びの名人として天下に聞こえ、大力の上に早業をよくし城の塀など飛鳥のように飛び越す武人であったが、小野木家滅後細川家へ仕えたのである。そして二千石を領していた。
 蔵人は、父の死後も身持ちが直らない。朝から酒をくらって遊び歩き六千石の大身でありながら、少しの金の蓄えもなくいつも財用不足勝ちであった。だから、亀右衛門は折り折り強意見を加えた。ところが、その時は承服するけれど見奢りきった僻やまず、これを見て亀右衛門はほんとうに心を痛めてきたのである。ある年、蔵人が江戸の勤番を終えて帰国する途中をはかり、亀右衛門は十人ばかりの家来をつれて馬上に乗り出し、路上でばったり蔵人と出合わした。亀右衛門はことさらに忙しい風を装い、ただ一礼したのみで行き過ぎた。蔵人はこれを不審に思って馬をかえして亀右衛門を呼び止め、
『貴公、大分忙しそうだが何か急用でもできたのか』
 と、問うた。ところが、亀右衛門は、
『大事起こり候』
 こう答えたばかりで、また行きすぎようとする。蔵人は、いよいよ不審に思って、さらに馬をかえして亀右衛門を呼び、
『日ごろ眤懇のよしみ、このままでは水臭い。どんな大事か聞かせてくれ』
『そうか――いや別ではないが、このたび大阪に戦の用意あるによって主人も出陣との沙汰がある。ついては、拙者もその仕度に出かけるところだ』
『それは大変だ』
『そこで、加賀山隼人も近々三百人ほどの家来を打ち立てしとのこと――貴公も隼人と同祿であるから三百人の家来を用意して出陣せずばなるまい』
 亀右衛門は、こう言ってから口を一文字に結んで顔を緊張させた。これを聞いて、蔵人はその場で色を失ってしまったのである。
『面目ない。いま我らには金の蓄えが一文もご座らぬから、このたびの軍役は勤め難い。この申し訳に、帰宅の上切腹仕らん。貴殿との面会もただ今限りである』と、涙を払ってから『同じ家中の人々には、戦場にて討死なし、功を立てるものもあろうに、軍役が勤まらで、居ながら切腹する身はいよいよ武運尽きた。いざ、お別れ申さん』
 と、蔵人は馬の頭を向け直し覚悟は充分であるという風があった。この体を見て亀右衛門は、
『これこれ、ちょっと待ってくれ、拙者も貴殿の宅まで同道しよう』
 と、言いながら蔵人と馬の頭をならべて歩き出した。しばらく、二人は無言でいたが、やがて亀右衛門が静かに言うよう、
『拙者、ただ今申したことは、皆偽りである、けれど、遠からず大阪に合戦が起こるであろうことは、誰が眼にも見えているところだ。その時、今日の後悔がないように、拙者ただ今偽りを申した。いまから奢りをやめ倹を専らにして、いつ合戦が起こるとも差し支えなきよう、軍用金を蓄え置くことこそ、武士のたしなみに候』
『かたじけなし――』
 蔵人の眼から、暑い涙がふり落ちた。
『これまで、貴殿の諫《いまし》めを用いなかったは、わ
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