る。『天正日記』に――天正十八年十日、はれる。江戸入のしたくにて万右衛門殿はじめ、とりどりかけはしる。酒一升七十文、するがより五文たかし。殿様今日御城へ御入也。酒一升七十文は、米価に比するに大抵五倍の差あり、酒価の古記に見えしものを参考するに、余り貴きに似たり――と、昔を恋しがった。
 されば、昭和時代の我々酒徒が、酒が高くなったのに愚痴《ぐち》を重ねて囁くのも当然だ。もうこれからは、白粉《おしろい》をつけた女のいる酒場で一杯二円、三円の洋酒など、山芋が鰻になっても飲むまいぞ。もし、僕たちが若い時から飲兵衛でなかったら、随分いま頃は金持ちになっていただろうなあと嘆息まじりに飲み仲間で談じ合うことが度々《たびたび》ある。極《ご》く内輪に見て、一日平均三合宛飲んだとすれば、この歳になるまで一体どの位の量になったろう。かりに三十年間飲んだとして、一万九百五十日、計三十二石八斗五升となる。つまり、六尺樽一本近くだ。この金で、国債でも買って置いたならなど、死んだ児の齢を数えるように、熟柿に似た呼吸を吹き合う。
 それは、私の十七歳の初夏であったと思う。赤城山へ登山して、地蔵岳から鍬柄峠の方へ続くあの広い牧場で淡紅の馬つつじを眺め、帰り路は湯の沢の渓を下山した。塚原卜伝と真庭念流の小天狗と木剣を交えた三夜沢の赤城神社を参拝してから、関東の大侠大前田英五郎の墓のある大胡町へ泊まった。宿屋は、伊勢屋というのであったと記憶している。
 台洋灯の下へ、女中が晩の膳を運んできた。その時、何ということなしに、ふと、
 ――酒を飲んでみようか――
 と考えた。日ごろ、父がおいしそうに飲む姿を眺めていると、父は酔眼の眦《めじり》を垂れて私に、
『お前も一杯やってみるか』
 などとからかうことがある。ところが、これを母がすかさず聞きつけて、
『とんでもない――酒は子供の頂くものじゃない』
と、父と私をきびしくたしなめたことが幾度かあった。
 だから私は、酒が飲みたいなどと一度も思ったことがなかった。けれど、こうしてひとりで旅の宿に夜を迎え、高足膳に対してみると、一室の主人公といったような気持ちがする。
『お前も一杯やってみるか』と言った父の言葉が頭の何処《どこ》かを掠《かす》めた。そこで、ただ何となく『飲んでみるか』と軽く考えたのである。
『女中さん、酒一本持ってきておくれ』
 誰|憚《はばか》
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