うのがある。そのまた支流に、湯西川と称する渓流があって、これは会津境の枯木山に水源を持っているのである。水源に近いところに湯西川温泉という岩風呂の景勝までは、よく人のいくところだが、それより一里奥の高手と呼ぶ平家の落ち武者が営んだ部落へは、訪《とぶら》う人が少ない。
三、四年前の四月の末、私は釣友三人と共に、この湯西川渓谷から、富士ヶ崎峠を越えて、奥日光の上呂部渓谷へ降り込む旅に、高手の部落へ足を入れた。
ところが、一軒の樵夫《きこり》の家の軒に、生々しい熊の皮が、赤い肌を陽に向けて、三枚も吊るしてある。私らは、その庭で藁仕事をしている老人に、熊の皮のわけを問うと、これはきのう富士ヶ崎峠の右脇の谷に、穴住まいしていた大熊を三頭一時に撃ち取り、けさ皮を剥いて干したばかりだと答えるのである。
「こりゃ、しまった」
富士ヶ崎峠と言えば、これから我々が越えようとする峠だ。熊の住み家ときいては、恐ろしい。ここで引き帰そうというと、老人はその心配はない。いるだけ取っちまったから、もういない。と、言うのである。
そこで我々は、びくびくもので太郎山に対峙する富士ヶ崎峠を越えたのであるが、一体東京から、さまで遠くない山や渓にも、月の輪熊は豊富なのだ。
けれど、北海道の熊を食うのは、今回がはじめてである。熊料理の、膳の上に現わるる日が待ち遠しい。
五
さて、その日がきた。会場にあてた春日町の支那茶館へ行ってみたのである。
もう、同好の面々が二、三十人集まっている。そのなかに、金田一京助博士と舞踏の五条珠実嬢の顔が見えたのは、異色だ。当日の胆いりである私の友人の説明によると、金田一博士はアイヌと熊の研究にかけては日本一の権威であり、珠実嬢は花柳を五条に改名してから、近くはじめて新橋演舞場で公演するが、その出しものは金田一博士の指導により、アイヌの熊踊りである。だから、この二人は北海道の羆にとって、縁あさからざるものと考え、特に通知して出席を煩わしたと言うのだ。
一同食卓につくと、司会者はまず金田一博士にアイヌと熊について談話を乞うたのである。博士は、女性のようなやさしい謙遜の態度で語りだす。
アイヌの歴史は、熊の歴史であると言っていいほど、アイヌは太古から熊と共に生活してきた。アイヌの信仰は、この世の中の人間の国のほかに、神の国があるとしている。人間以外の動物はすべて神が変装して神の国から人間の国へ遊びにきたものと信じているのだ。熊も、狐も、兎もそれぞれの神が、獣のマスクをかぶり変装して、人間の国へ現われ出で、われわれにその肉と皮を贈物としているのだと信じきっている。
だから、神の贈物である獣を殺して食ったところで、神は満足にこそ思し召すが、決して怒るものではない。だから、アイヌは熊を神の化身と思っている。熊を祭ることが、神を祭ることだ。そして神を祭ったあとで熊の肉を煮て食う。これは、神へのお思し召しに添うものだ。
熊祭りのときに、アイヌは神前に一瓶の酒を供える。神は人間を敬う心を褒賞して、やがて一瓶の酒を十倍に増して、返してくれるのだと信じている。アイヌが小熊を愛する姿は、美しいほどだ。だが、山へ熊狩りに出ては、戦慄《せんりつ》に値する勇敢さを示すのである。立ち向かってくる大熊に素手で抱きついて格闘する。ついに熊は自ら舌を噛み切って死ぬ。
ところで、羆はどうかというと、これは油断もすきもならない。元来、羆は人間の肉が好きなのである。月の輪熊は、人間と睨み合ったとき、人間の方が瞳をそらすと、そのすきを狙って一目散に逃げだすが、羆の方はそうではない。遮二無二、人間の肉を食おうとして、あの巨大な掌と爪を、宙に掲げて人に迫ってくる。さすがのアイヌも、あの茶色の羆には恐れをなしているのである。
以上、だいぶ熊について知ったか振りを喋ったが、実は私はいままで一度も羆の肉だけは、食べたことがない。そこで羆はどんな味を持っているものか、と今夜馳せ参じたわけであるという挨拶だ。
次に、五条珠実嬢が立った。白粉を厚くつけているから、歳のところは分からぬが女にしては素晴らしい能弁である。先年、北海道への旅先で小熊に邂逅した件《くだ》りから、金田一博士の指導により、神を敬うアイヌの心境を探ねつつあるわが気持ちを語る条など、ひどく味わいのある話であった。
最後に、アイヌの民謡「鳥になりたや」の一齣を唄ったのである。これは演舞場の公演で唄うのであるそうだけれど、珠実嬢は踊りばかりが専門であると思っていたところ、唄もえらく大したものだ。美声が、ころころと喉から転びだす。一同、ぱちぱちと拍手喝采。おかげさまで、ますますお腹がへってきた。
六
献立表に書いてある前菜の四冷葷が炊白鶏を第一として歯鮑片、五番且、三絲※[#「折/虫」、第4水準2−87−49]と次々に運ばれ、続いて髪菜、広肚、紅焼、魚翅、※[#「火+畏」、第3水準1−87−57]五などが卓上に現われる。それが、一巡してから大皿に盛り出されたのが、「香熊」と銘うつ待ちに待った羆である。
われわれは、献立表に書いてある「香熊」というのを、実は熊掌料理であるまいかと期待していたのだ。熊掌料理は支那の料理書によると豹胎、鯉尾、龍肝、鳳髓鶚炙、酥酪蝉、狸唇の七種を加えて周の八珍と称しているが、その料理法について木下謙次郎は、まず熊掌を温水でよく洗い、次に熱湯で湯がいて表皮を剥ぎ、これを流水にさらすこと三昼夜。かくして磁器のうちに入れ、酒を醋に和して昼夜間断なく蒸熱すること、少なくとも五昼夜に及ぶ。そこで臭気が全然去り、かつやわらかになったならば骨を抜きとり肉を薄くきり、鶏汁、酒、酢、薑《はじかみ》、蒜《にんにく》などを加え、数時間煮燗して最後に塩と醤油で味をつける。以上の次第であるけれども、熊掌料理を仕上げるには少なくとも十日間位を要し、その味は脂肪の固まりに似て旨味ありて、口ざわりよく、かつ軽い苦《にが》み味を持っていると、説いているのである。
「香熊」を一瞥すると、それは長崎料理の角煮に似たものだ。熊肉を煮込んで、それを燐寸《まっち》の小箱ほどの大きさに切り、それに濃い香羹《こうかん》がかけてある。一塊を箸でつまんで舌上に載せたところ、かつて熊掌料理を食べたことはないが、なんとなく口ざわりが、それとは違うようだ。先年、吾妻渓谷の奥で、すき焼きにして食った月の輪熊の土の香もない。
これならば、牛肉のシチューとなんの選ぶところがないではないか、と丸い卓を囲む衆議が一決したのであった。そこで、今回の割烹を司った広東出身の料理人である張伊三を座敷へ呼んで、料理の次第を問うてみた。
張伊三が言うに、お察しの通りこれは熊掌ではありません。羆の脊肉です。元来熊肉料理は肋肉を尤《もっと》もとし、その脂肪潤沢に乗ったところを賞味するのですから、脊肉では至味とは言えません。けれど、料理には遺憾なく腕を揮ったつもりです。まず生肉を蒜薑を刻んだものと、酒と醋に一昼夜漬け込み、そのまま高熱で煮て燗熟させ、土臭を去り、ついで塩と醤油で味をつけ、さらに広東料理特有の香羹をかけたのであります、と言う。
なるほど、その料理はおいしいにはおいしいが、羆という特色は、どこにも味覚の点に発見されない。これは豚や、牛肉の煮込みであると言われても、ははあそうですかと答えるほかに言葉がない。という衆評となった。
次に卓上に現われたのが、献立表に単に「熊肉」と書いてある料理だ。これについても、張伊三が解説を加えるのである。これは、羆の腿の肉であった。まず、肉を高熱で充分煮込み、さらに五香の粉と酒に漬け込んで一昼夜を経、それを本|胡麻《ごま》の油でいためて、塩と醤油で味をつけ、野菜を添えて供したのが、これであります、と言うのだ。
これを要するに、この羆料理は、あまりおいしく食べさせようとする料理人の腕前のためにその特色である野獣の土の匂いを悉く去ってしまったから、羆でなければ求め得られない味はとうとう舌端に載せてみることができなかったのである。
それは、それとして置いて北海道の樽前山の麓の現地で、名射手連が舌鼓を打ったであろう熊掌のことが想われる。ついに、私には、熊掌の漿を恵まれないのか。
底本:「『たぬき汁』以後」つり人ノベルズ、つり人社
1993(平成5)年8月20日第1刷発行
※<>で示された編集部注は除きました。
入力:門田裕志
校正:松永正敏
2006年12月2日作成
青空文庫作成ファイル:
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