んでゐたのである。
 この日、私が呉清源を訪ねたのは、病気を見舞ふのを第一の目的としてゐたけれど、ほかに一つの目的があつたのである。それはその当時、七月の中旬に日華事変がはじまつたばかりで中国軍は連戦連敗、蒋介石は奥へ奥へと逃げ込んで行く、哀れな折柄であつた。この祖国の苦難に際して、呉清源はどんな感想を抱いてゐるか、私はそれを知りたいと思つたのである。さうして、彼の感想の持ちやうによつては、深く慰めてやりたいと考へてゐた。
 最初は、病気の経過のことから棋友の消息、遷り行く秋の眺めのことなど話してゐたが話題は次第にこのごろ大きな見だしで報ぜられてゐる日華事変のことに移つて行つた。私は、この事変に対する呉清源の感想を誘ふやうに仕向けて行つた。すると彼は言葉少なに、また遠慮するやうにぽつ/\とこんなことをいつた。
 ――末は、どうなることかと人並に心配が起らないでもない。戦争といふやうなことは結構な話ではないと思ふ。結構な話だと思ふ人は一人もあるまいが、とりわけ私のやうに中国に生れて、いまでは日本人となつてゐる者とすれば、日支が争ふなどとはまことに以て、ありがたくない。ならうことなら一日も早く、平和に帰つて欲しいのが山々である。
 かう述懐して、しみ/″\とするのである。私は、これをきいて切なる言葉であると思つた。そこで私は、問うてみた。
「とはいふけれど、現在日本に帰化したとはいひながら、中国がかうも日本に苛められてゐる場合、君は日本に敵愾心は起らないものか」
 と、言つて私は呉の顔を見たのである。
「…………」
 彼はこの問をきいて、しばし瞑目して唇を開かなかつた。しかし、やがて眼を開いて静かに語りはじめた。
「――御説の通りである。私は、帰化して日本人となつてゐるが、この腕のなかには中国の血が流れてゐますよ」
 かういひ終ると彼は袖から左腕を出して、前膊の白い皮膚を右の掌で二三度叩いてみせた。
「――而かも、蒋介石は私と故郷を同じくしてゐます。中支浙江です。私は蒋介石の心事を想ふと、胸が一杯になります」
 と、いつて彼はまたうちしほれた。やがてまた言葉に力を入れて、
「私は、一つの信念を持つてゐます。たとへ蒋介石が日本に征服されたとて、私が日本を征服してその仇を取つてやるといふ信念を持つてゐます。私は、この痩せ腕で武器を執つて血を見る戦争の術は知らないけれど、私は
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