、まったく手がかりがなかったのである。

  三

 石坂家の家族は、また僅かに三人で大きな邸に住まわねばならぬようになった。孫の雅衛は成長して十八歳になった冬である。明治三十一年である。
 ある日、石坂儀右衛門遺族殿という手紙が石坂家へ配達された。差出し人は、茨城県鹿島郡麻生町の一青年某というのである。私が数日前、霞ヶ浦の枯蘆《かれあし》のなかを散歩していると、小径から四、五歩離れたところに、小さな一つの石碑を発見した。碑面に、水戸浪士石坂儀右衛門之墓とあり、裏に儀右衛門は上野国佐波郡芝根村沼之上の産、文政十二年出生、文久三年玉造町の役にて斬死し屍を茲《ここ》に運び来って葬る。と、ばかり書いてあった。碑は苔蒸し土にまみれ碑頭は鳥の糞に汚れて弔う人もない姿であるが、もしこの手紙が遺族の人の手に届いたならば遙かに線香でも立ててやったならばどうであろうかという甚だ奇特な書翰であった。
 雅衛の祖父に儀右衛門と呼ぶ人物があったことは、村役場ではもちろん、村の老人たちも誰一人知らぬものはないのである。だから、この手紙は少しもまごつくことなく、雅衛のところへ配達されたのである。
 祖母のたみは手
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