を生まんうちは、わしらのようなものの精が、どんな妖気を弄んだところで、あの息子を拐《かど》わかすことはできない。つまり石坂家の持っている天命を、われわれが左右しようといったとてそれは無理じゃ。まあ、落ちついて時節のくるのを待つがよい。その時節は、遠いことではあるまいとわしは思うね」
「ですが、わたしの乙女心をお察しください」
「乙女心か、あっははは――ところでね、賢彌君の曾祖父さんが、渋峠の西に当たる横手山の渓谷の岩窟に、野守の精ともう百年近くも共に棲んでいるのは、お前さんも知っている筈じゃね。わしはお前さんのわずらいが心配になるので、二、三日前横手山へ出かけて行って、曾祖父さんに相談してみた。一日も早く賢彌さんを相俣淵へ引き取って、岩魚を安心させてやりたいが、なんとかならぬものでしょうかといったところ、一言のもとにはねつけられた」
「それはご親切に――厚くお礼を申しあげます」
「お礼で痛み入る――ところで、嫁を貰い子供を儲けぬうちに賢彌を誘拐すれば、石坂家の系図はそこで絶えてしまう。もし、早まって強いて賢彌を誘い出すような不心得のことをやれば相俣の岩魚めはひと捻りに捻りつぶす。そのときは、貴公も同罪じゃから只では置かぬと曾祖父さんから大喝を喰ったようなわけじゃ。じゃが、条件さえ具備すれば、これは石坂家に伝わる運命じゃから貴公らが賢彌を煮て食おうと焼いて食おうと――」
「そうでしたか、では静かに時節のくるのを待つよりほかにいたし方ありませんね」
「そのとおり、そこでしばらく燃ゆる恋心を抑えて、身のわずらいを癒《いや》す思案でもするがよかろう」
「心を落ちつけます」
「そうでなければならぬこと。そして、からだを達者にして置いて恋人を迎えにゃなるまい」
「ほほ」
 月は次第に西の空にまわって、対岸の高い絶壁のかげに隠れた。月光を失った淵の面と河原は、俄に暗いかげの底に吸い込まれて行ったのである。巨猿の姿も、魚精のかげも幽黝《ゆうゆう》の底に抹消された。

  十

 正月がくると、石坂家へ目出度い縁談があちこちから持ち込まれた。一体、石坂家に伝わる幻奇については、近郷に知らぬものはないのであるけれど、不思議なことに代々縁談に不自由はしなかったのである。石坂家は、この地方では有数の豪農で豊かに生活し、城郭のような屋敷を構えていることも世間の思慕を惹《ひ》いている理由であるに違いない。代々の祖母や母が、息子のために多くの縁談のうちから、贅沢な嫁選びをしてきたほど、幸福であったのである。
 賢彌の縁談も、同じようであった。いま、賢彌の祖母や母に、白羽の矢を立てられようとしているのは、大利根川を隔てた対岸である武州の、これも豪農の美しい令嬢である。仲人は、目出度い談を纏《まと》めようとして、幾度も渡し舟に乗って石坂家を訪れた。
 賢彌が、岩魚の精と共に永久に深淵に棲む運命を迎えるのはいつのことであろうか。
[#地付き](昭和二十二年二月一日)



底本:「『たぬき汁』以後」つり人ノベルズ、つり人社
   1993(平成5)年8月20日第1刷発行
入力:門田裕志
校正:松永正敏
2006年12月2日作成
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