紙を読んで、眼がくらくらとした。たみは、六十五歳になっていた。すぐ家族三人で相談し、雅衛に遠い親戚の中年の男を付添いとし、常陸国の麻生まで急がせた。二人は手紙の主を尋ねて厚く礼を述べ、その案内によって祖父儀右衛門の墓に詣でた。墓は湖畔の枯蘆のなかに、遠い幕末の夢を結んでいた。近くの寺から僧を頼み、経をあげて貰ったのである。香烟が、低く冬の湖の水の上を流れた。
雅衛は、祖父儀右衛門がどんな死に態をしたのであるか、麻生の町の古老を、あちこち訪ねて問うたけれど、それは皆目知る人とてはない。ただ、それだけで雅衛は沼之上の家へ帰ってきた。
明治三十五年、雅衛は二十二歳のとき、利根川の上流末風村から、みよと呼ぶ十七歳の若い花嫁を迎えた。孫に嫁を迎えた喜びも束の間、たみは六十九歳を最後に他界したのである。また家族は母と息子夫婦の三人となったが、三十七年の日露戦争がはじまった年に嫁さんは男の子を生んだ。これに、清一となづけた。清一が二歳となった翌三十八年の盛夏のころ、雅衛はこれも突然姿を晦《くら》ましてしまったのである。なんたる運命に魅入られた石坂家であろう。
清一は二十三歳のとき、大正十五年武州児玉郡大幡から、嫁のきみを入れた。利根川の対岸宮郷村から嫁にきた裕八郎の妻ふゆは、孫清一が結婚する二年前の、大正十三年に一生を終わっている。
嫁のきみが、昭和三年に男の子を生んだので、雅衛のところへ十七歳でよめにきたみよは、四十四歳ではじめて祖母になった。嫁が子供を生むと母のみよは、当家に伝わる運命の日がやがて来るのであろうことを予知して、息子清一の一挙一動に注意を怠らなかった。村の鎮守さまはもちろんのこと、信州の善光寺さまへも、紀州の高野山へも一家安泰を願かけた。賢彌となづけた孫が二歳となった春など、自ら旅支度を整えて、善光寺から越前の永平寺へ、京都の神仏を歴詣し、高野山から伊勢大神宮へ出て、成田の不動さままで頼んで沼之上の家へ帰ってきた。
しかし、その甲斐はない。
祖父の裕八郎が家出したと同じころの秋がきたとき、これもまた掻き消すように長屋門の前から姿を消した。祖母のみよは、狂気のようになって悲しみ、清一や清一やと、毎日泣き叫んだが、詮ないことであった。
どの嫁もどの嫁も必ず男の子を生むこと、その子が二歳になると必ず当主が家出して、行衛不明となるということが、この近郷近村
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