ど、娘はそれを一笑に付して相手にならない。その後ぜひほしいという軍人さんがあって人を介して真剣に申し込んできた。母は今度こそ良縁であると見極めをつけ娘に最後の返答を迫ったのである。ところが、娘は相変わらずの態度である。母は怒った。お前をこのままの姿で置いては、母は死んでも成仏できないと、泣いて迫った。
しからば、お前の好きな人があれば誰とでも結婚してくれと、最後の話となった。このとき娘は座を整えて、母に向かっていった。私は、世間の人と結婚するのは、もう真っ平です。ですが、私の理想の男となら結婚いたしましょうと答えたのである。母は喜んで、そうかお前にもし理想の人があるなら、誰とでもよい結婚しておくれ――ほんとうにお前、理想の人があるのかえ。
娘は、黙している。
あるのなら、この母にだけいってご覧、遠慮はいらないよ、お前の望むところも、母の望むところも同じですもの。
娘はついに唇を開いた。あります。
どんな立派な人。
あの越後から来た炭焼男です。
あっ!
母は絶倒してしまった。
娘は、男の純情に渇していたのである。富貴、安楽、それがなに物であろう。虚偽、虚栄。それは、鬼畜よりも怖ろしい。自分は人間の純真と純情の生活のなかに、自分の姿を見出したい。それは、熊本を去ったときからの、念願であったのである。
それから間もなく、娘は唐草の風呂敷包みを一つ背負って、万太郎山の南向きの山襞に猟小屋ほどもない小さな炭焼小屋へ嫁に行った。浮世の掟通り、娘は生まれた家へ出入不叶という条件の許に、理想の人と共に暮らす人となった。
小屋の傍らには、清冽な湧き水が、岩の裂け目から走っている。美人は、そこで麦や粟や稗をといでいるであろう。
この頃、世間では食糧不足のため、来春は一万人も餓死者が出るかも知れぬといって、真剣に騒いでいる。もちろん耕地のない山奥の炭焼小屋も、世間並みの食糧配給を受けているに違いない。してみれば飢餓という浮世の風は、その山奥まで吹いて行こう[#「行こう」は底本では「行かう」]。
だが、私はこの炭焼夫婦だけは飢え死にさせず、末永く夢を実現した美しい人として生かして置きたいと思う。
底本:「『たぬき汁』以後」つり人ノベルズ、つり人社
1993(平成5)年8月20日第1刷発行
入力:門田裕志
校正:松永正敏
2006年12月2日作成
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