ちに、お笑い草があるから、お聴きしていただきたい。
当時の校長は丘さんといって、鹿児島県出身の厳格な教育家であった。その頃、我々学生は昼の弁当を教室内で食べる規則となっていたのであるが正午の時間がくると学生らは、その規則を守らないで弁当箱を校庭へ提げ出し、さらに校庭を囲んだ土手を越えて利根の河原へ繰り出したものだ。
そして、玉石の上へ腰を下ろし、激流の白い泡を前にし右に赤城、左に榛名を、七分三分に眺めながら、悠々と箸を運んだのであった。学校当局は、それを見て怪《け》しからんという思し召しであった。
いつの間にか校庭の土手の上は、木の柵で囲まれてしまった。ところで同盟休校の決議文のうちに、校長の反省を求める趣旨で「我々学生は牛に非ず」という一項があったと記憶する。
そんな稚い学生であるが、東京へ出るよりほかに途はない。だが、同盟休校をたくらんだ主謀者の腹の奥には、日ごろ田舎の中学にいるのは時代遅れだ。東京の空気が吸いたい。けれどそんな希望を父兄に申し込んだところで、一喝を喰うだけであるのは分かりきっている。だから、同盟休校をやれば退学処分にあう。退学処分にあえば、父兄もしょうことなしに我々を東京の学校へ送るであろう。
こんな三段飛びの秘策が密にたくらまれてあったのは否まれない。そこで、うまうまと目的を達したわけになった。
上京二、三ヵ月は、私立学校補欠募集を目ざし、己が面目かけて勉強していたために故郷のことなど、てんで頭になかったけれど、入学試験に及第して、ほっとして下宿屋の四畳半に胡座《あぐら》をかくと、故郷の空がそろそろと頭にうかぶ。
私は、勉強の方は甚だ不得手で、神田にある東京中学校と、大成中学校を受けたが二つとも落第。最後に、本郷駒込の郁文中学を受けて辛うじて四年の二学期に入学を許された。その試験は、八月の末か九月の初旬で、飛白《かすり》の単衣《ひとえ》に、朝夕の秋風が忍び寄る頃であった。
田端の高台にある下宿屋に移り、駒込の学校へ通う路すがらの田の畦に蟋蟀《こおろぎ》が唄う秋の詩をきくともなしに耳にする候になると、少年のわが胸に、淡い望郷の念が動いてきた。それが、日をへるに随って、恋々となったのである。
そのころ本郷の高台と田端道観山を隔てる谷には、黄色く稔った稲田が遠く長く続いていて南方を眺めると根津の権現さままで、見通せたのである。私は
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