後、天に沖《ちゅう》する大噴煙の躍動である。ドンと爆音が耳に谺《こだま》したと同時に庭前へ飛びだして西の空を望むと、むくむく灰色の大噴煙の団塊が、火口から盛り上がるのを見るのである。それから一秒、二秒。煙の団塊は天宙に向かって発展し、入道雲のようになって丸く太く高く、高く突っ立つ。
 煙の尖端が天に沖して、ある高度まで達すると、その尖端は必ず東の空へ向かって倒れるのである。東の風の吹く日に爆発したとすれば、爆発直後、煙はある高度までは西方に傾きつつ天に沖するが、さらに高度を高めて一定のところまで上がると、煙の尖端は必ず反対に東の空へ向かって流れはじめるのである。
 そこで我々は、なるほど煙は一万尺の高度に達したなと思うのだ。つまり、煙が必ず東へ向かって流れる一定のところが、成層圏に近いのであるかも知れぬと察するのである。
 浅間の中腹の肌に、瘤のように膨れ上がったのは小浅間である。小浅間から北方へ、なだらかに下れば、はてしもなくひろがった六里ヶ原だ。五月下旬の六里ヶ原の叢林は、漸く若葉が萌えたつ時だ。茶、黄、燻し銀、鼠、鬱紺、淡縹、群がる梢に盛り上がる若葉はなんと多彩な艶に、日光を吸い込むことか。
 叢林の若葉の色沢は、触れれば弾力を感ずるのではないかと思う。
 六里ヶ原の浅絲の下には、幾本もの渓流が吾妻川の峡谷に向かって走っている。そこには、数多い山女魚《やまめ》が棲んでいて、毛鈎《けばり》の躍るを追い回す。殊に熊川渓谷の銀山女魚の味は絶品だ。
 四阿《あずまや》山は、上信国境の峻峰であるけれど、遠く榛名の西の肩に隠れて姿を出さない。しかし両毛線の汽車に乗り、新前橋駅を発して高崎駅へ向かう途中、日高村の信号所の前後からは、僅かに頭の一端を遠望することができる。それも、まだ残雪の濃い早春の、穏やかに晴れた朝でないと、他の群峰に紛れて、しかと判別することができぬ。ほんの、拳ほどの大きさに、白い頭が覗いているだけである。
 浅間の東南に続くのは、角落や妙義の奇山で、これは誰にもなじみ深い。わが村から真西に卓子のように平らに横たわるのは、神津牧場の荒船山である。荒船山の右の肩から奥の方に、雪まだらの豪宕《ごうとう》の山岳が一つ、誰にも気づかれぬかに黙然と座している。これが、信州南佐久の蓼科《たでしな》だ。
 それに連なって、西南の空は遠い峻岳高峰が居並び、まことに絢爛たる
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