自然の懐ろに抱かれ、心豊かに幸福に暮らしているらしい。
 人間にとって、故郷ほど肌ざわりの滑らかな里はないのである。しかも友は、二人の子供の育成に、眼も鼻もなき喜びに耽っている状が書翰の文字の間に、彷彿として現われている。
 子供と故郷のうるわしき野山、子供と鮮やかな草樹を着た大自然。
 読み終えて、巻くともなしに手紙を掌に持ったまま、私の冥想は徐《おもむろ》に、さまざまの方へ向かっていった。
 そして最後に、なぜ日本人は純情であろう、かということが頭にうかんだ。窓外に、五月の緑風が、輝く若葉を繙いていく。
 日本人の、純情を培ったものには、数多い素因があるであろう。
 しかし、私が最も有力なる素因として感じているものに、国土の美しき風景、山川草木がある。つまり、潤麗にして、豊艶なるわが国の風景が、人々を純情に育てきたったのであろう。さらにそこへ一つ、郷党の親愛こまやかなる情合いをも、素因として加えたい。
 この美しき国土を愛すればこそ、我々日本人は清いのである。晴温なる空の色、かぐわしき野の匂い、清楚な水の流れ、情味の芳醇な山の姿。どうして、こんないい国を亡ぼすことができよう。人々の抱くその感懐が伝統の強き情操に育まれきたったであろうと思う。
 わが国土の「美」を決して他人に、蹂躙《じゅうりん》させまい。これなのだ。これが、日本人の力の泉であった。
 人は、誰でも故郷を持つ、誰でも故郷に対する愛着の強さは、言葉ではいい現わせぬものがある。日本の国土全体を愛する執念と共に、我々は醇美なる故郷の自然に陶酔しているのである。されば、我々は故郷の山川草木にも、強く育てられてきた。
 山国に生まれ育った人も、平野に生まれ育った人も、都会に生まれ育った人も、そこは各々の故郷である。私は、江戸時代から先祖代々七、八代も続き、田舎に故郷を持たぬ幾人かの友を持っている。その一人に、将棋の名人木村義雄君があるが、日ごろ彼がいうに、自分は草原山川に囲まれた故郷を持たぬ。
 だから、田舎の生活の情味は知らない。そこで、どこが故郷かといえば、やはり東京が故郷である。自分は、本所の割下水で生まれた。つまり、割下水が故郷だ。引き潮時に、掘割の真っ黒い水の底から、ぶつぶつと沸き立つ、あの溝の臭みが故郷の匂いである。
 ときどき散歩に行く、丸の内のお堀端の柳が水に映る姿も、故郷の彩である。そんなわ
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