いうちには、ただ遠い山と呼ばれてのみ、人々の接近を許さなかったのである。伊勢崎市付近の平野からは、谷川岳の左に続いて万太郎山の姿が遙かに見える。
 小野子山の肩から、榛名山の右の肩にかけて空間に、これを遙かに白い国境の山脈が連なっている。三国峠を中心とした三国山の峰々である。上越線が開通する以前、恐らく数百年前から、越後国の人々はこの雪の三国峠を草鞋《わらじ》をはいて越え、上州や武州の江戸村の方へ稼ぎに出て行った。米搗く人もあったろう、湯屋の三助を志す人もあったであろう。
 三国連山から西に続いて、渋峠の山と草津の白根火山が聳えているのであるけれど、白根山も渋峠も、榛名山の背後に隠れて、平野からは全く視界を絶っている。しかし、昭和七、八年頃、白根が盛んに噴煙している間は、静かに晴れた秋の日に、夕陽を狐色に映した煙が、榛名山の右の肩から細く、東北の方、越後の空に遠く棚引くのを折り折り望見した。
 榛名山は、わが上新田にとって、お隣という感じである。あるいは、上新田は榛名山の麓の分に含まれているかも知れぬ。
 真北よりも、少し西に位置して、群馬郡南部の平野を悉く、おのれの衣裳のうちに包んでいる。赤城と同じに、なんと広い裾野の持ち主ではないか。
 榛名は赤城に比べると、全体の姿といい、肌のこまやかさ、線の細さなど、女性的といえるかも知れない。東から船尾、二つ岳、相馬山、榛名、富士と西へ順序よく並んで聳えるが、どの峰もやわらかな調和を失わない。そして、それぞれが天空に美しく彫りつけたような特色を持っているけれど、敢て奇嬌ではない。
 まず、榛名は麗峰と呼んで日本全国に数多くはあるまいと思う。
 死んだ村上鬼城は、榛名の春霞に陶酔して、これを幾度も俳句に読んでいるけれど、私は秋の榛名に傾倒している。九月の末になって、峰の初霜から次第に冷涼が加わってくると、榛名は嶺の草原から紅くなる。十月に入ると、もう朝寒むである。嶺の草紅葉の色は、段々に中腹の雑木林に移り染まって恰《あたか》も初夏、新緑が赤城の裾野を頂に向かって這い登るのと反対に、一日ごとに青草の彩が、麓の方へ退くのが、はっきりと分かるのである。
 この頃の榛名を眺めると、私は終日飽くことを知らない。殊に、十月下旬になると相馬ヶ原一帯の錦繍《きんしゅう》は、ほんとうに燃ゆるようだ。明治三十九年の正月の上旬であったと思う。私は
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