まい。きょうを最後に、おれは生まれ代わるのだ。
 だのに、高知へ着くとけろりとして酒を飲んだ。新橋駅の心の誓いなどてんで思い出してもみなかった。神戸へ上陸してからは、なけなしの財布の底を叩いて福原遊廓へも走り込んだ。おれという人間はもう箸にも棒にもかからないのだ。
 野の道に腰をおろして、西の方を見ると、八幡の町から田圃を隔てた新緑の林を貫いたお寺らしい大きい甍《いらか》が眼に入った。もう財布に一銭もない。今夜から食うこともできなければ、また泊まるところもない。ふと、寺のお弟子になったらばと、思った。弟子になれたなら、食うことばかりではない、おれの性根もなおるだろう。
 私は、田圃の畦道《あぜみち》を歩いた。寺の庫裏《くり》の広い土間へ立って、
『ご免なさい、ご免なさい』
 と幾度も繰り返した。漸く聞きつけたと見え、奥の方から五十二、三歳の梵妻《ぼんさい》風の老女が出て来て、私の前へ立った。
『なんぞ、ご用どすか』
 と、けげんな顔をしたのである。
 私は、しばらくためらっていたのであるが、放蕩に身を持ち崩し、東京を夜逃げの姿で旅立ちし、土佐から神戸、大阪と職を捜してさまよってきた。けれど、どこでも職がみつからない。もう、身に一銭の蓄えもなく、この先どうして生きていこうかと、寺の前の田圃で思案に耽《ふけ》っていたが、とうとう決心してお寺様の弟子にして頂きたいと考え、だしぬけではありながら、お訪ねした次第です。と正直に言ってみた。すると老女は、これを聞き流したまま、何とも答えないで奥の方へ引き返して行った。
 しばらく待っていると、こんどは先ほどの老女と共に、黒い衣に白い足袋をはいた六十の坂を越したらしい、眼の細い物静かな老僧が出てきた。

     三

 お志のほどは、いま聞いた。だが立ち話ではどうにもならぬから、上がって頂いて篤《とく》と相談してあげたいのだけれど、京に用事があって今から出かけるところである。夕方には戻ってくるから正五時に来てくれ、と親切に言ってくれた。
 私は恭しく幾度も頭を下げた。
 夕方までの時間を、淀川堤の草の上で消すことにした。空に一片の雲もない日であった。西の方、愛宕山に続いた丹波の山々は低い空に、薄い遠霞を着ている。木津川の上流と思える伊賀の国の連山も遠い。淀の水は、白い底砂の上を、音もなく小波を寄せて私の眼の下を流れている。堤の若草にまじって黄色く咲いた蒲公英《たんぽぽ》の花の上へ、蜜蜂が飛んできてとまった。何と遅々たる春日だろう。
 うつらうつらと眠くなった。私は、老僧の親切な言葉に安心して、ほんとうにのんびりした気持ちになったのであった。
 眼がさめた。驚いて陽《ひ》を見るともう西の山の端に沈んでいる。日が暮れるのに間もあるまい。残映が、山の上を帯のように長い雲をぼんやりと紅く染めている。
 ――五時と言われたのに――しまった――
 私は、転ぶように寺の土間へ駆け込んだ。声を聞いて出てきたさきほどの梵妻は、私の顔を見るなり、
『おっさんは、いつも来るようなひやかしだとは思ったけれど、それでもと思って約束の正五時に京から戻ってきた。ところが、案の定、お前さんが見えない。仏をだます者は、碌《ろく》な者になれぬと言いながら、もう余ほど前に檀家の法事へ出て行った』
 と、いったような意味のことを突っけんどんに言い払って、ぶっきら棒に奥へ引き込んでしまった。私は呆気《あっけ》にとられた。
 私は、私の身はもう生甲斐がないと思った。生きて行けないと思った。寺の門を、しょんぼりと出ながら、淀川の鉄橋の上を物凄い軋《きし》みを立てて走る電車の突進するさまを眼に描いた。死ぬには、電車がひと思いでいい。
 今夜が、この世との別れだ。それにつけて、一期の思い出に酒を飲もう、と考えた。八幡の町へ出て、古着屋の前へ立った。鞄の中には、母が故郷から送ってきた手織の袷《あわせ》と兵子帯《へこおび》が入っていた。毛布もある。持物すべてを買って貰った。[#「。」は底本では「。、」]古着屋の主人は、母の心尽くしの袷を、汚らしそうに、指先で抓《つま》みあげた。それが、私に悲しかった。
 酒を一升買った。ひる間ひる寝をした堤の上へ一升壜を下げて行った。これも飲み終わったなら、静かにこの世に暇を告げよう。私は酒屋で貰った味噌をなめながら、茶碗酒をあおった。
 眼が覚めたら、私は暁の堤の草の上にまだ生きていた。みやこ鳥が、ゆるゆると淀の川瀬に泳いでいる。

     四

 友人に誘われて、一度吉原の情緒を覚えてから、私の心は飴のように蕩《とろ》けた。
 しまいには、小塚っ原で流連《りゅうれん》するようになった。朝、廓《くるわ》を出て千住の大橋のたもとから、一銭蒸気に乗って吾妻橋へ出るのが、私の慣わしであった。蒸気船が隅田川と綾瀬
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