にらみ鯛
佐藤垢石

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)砌《みぎり》

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(例)堪えない[#「堪えない」は底本では「勘えない」]
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     悲しき副膳のお肴

 万延元年の四月の末の方、世はもう、青葉に風が光る初夏の候であった。
 京都所司代酒井若狭守忠義は、月並みの天機奉伺として参内した。ご用談が、予定以上に長くなって、灯がつく頃になっても禁裡を退出しなかった。侍従岩倉具視は、
(この機を逸しては――)
 と、考えた。そして、久我建道と相談して、そっと女房を経て、御膳の『御した』のお下げを乞い、これを酒井に賜わった。『御した』というのは、主上ご食事の砌《みぎり》ご正膳の外に、副膳を奉るのであるが、その副膳のことを称えるのである。
 酒井所司代は、恐懼して平伏し、さて恭々しく箸をとろうとしたところ、悪臭が鼻にくるのにびっくりして、箸を措いた。膳の上の魚の肉が、何れも古くなっていたからだ。
『これは、どうしたことか?』
 と酒井はほんとうに不思議の思いをした。そこで、酒井はその場へ御膳吟味掛を呼んで、
『おそれ多いことではないか――』
 と、詰問した。ところが岩倉は、横から御膳吟味掛の答弁を引き取って、
『酒井殿は、拙者の申したことを信用しない風であったが、きょうのことでそれがほんとうであったことが分かったであろうと思う。これはひとり御膳吟味掛ばかりの罪ではないと存ずる』
 こう説いて、睫毛に宿る露を長袖で拭った。岩倉は、かねがね一天万乗の君のご前へ供え奉る御膳が、どんなに質素で、いや質素を通り越してお粗末であるかを伝えていたが、それを禁裡御取締まり内藤豊後守正継や、この酒井所司代は、
『あまりのことである』
 と、言って信用しない。そして、供御調度のことについて旧例を改革しようとはしなかったのである。けれど所司代は、きょう眼のあたりこの御膳を拝見して、絶倒せんばかりに恐懼した。
『いかにもこれは、我々関東の役人の責任であった』
 と、深くお詫びを述べた。かねて、岩倉から聞いていたが、それは誇張であって、事実はこれほどではないであろう。と推察申しあげ、何の手配にも及ばないできたのであった。酒井は共に悲しんだ。その後、酒井はいろいろと心を尽くしたのである。しかし旧例ばかりを楯にとって、何ごとにも禁裡を冷たく見てきた徳川幕府の首脳部は、
『俄に、御料を増すことは罷《まか》りならぬ』
 こうこたえて、所司代の申出を斥《しりぞ》けてしまったのである。酒井は、どうすることもできないで、自らそくばくの金を献上して、御内膳の資に供えたという。
 この、朝廷の供御欠乏のありさまを、実際に幕吏が拝しあげたのは、堀田正睦が上洛した時より、少し後の事であった。
 幕末時代における禁裡のご模様を記した書物を読み、また古老の話を伝え聞けば、いまの宮中のご盛事に思い比べて、ほんとうであったろうかと疑われて、畏れ多いことばかりである。

     僅かに一万両

 孝明天皇ご即位前後、禁裡御料のことは代官小堀が代々管掌していた。代官小堀は、禁裡と仙洞御所の諸官からの申告によって、宮中一ヵ年の収支を計算し、これを京都所司代へ差し出した。所司代は、一応これを検査して江戸の幕府へ送り、その裁可を経たところで、はじめて所要の額を代官から支出させていた。
 けれど、宮中の諸費用は幕府から少しばかり支出される金や、御料地の産物位では、到底こと足りるものではなかった。であるから、代官小堀はやむを得ず別途の金で立て替え支弁をなし、その翌年度の収納でこれを償い、なおその余りで年度の末までを賄うありさまであった。謂わば遣り繰り算段であったのである。
 又このようにご窮乏のうちにある宮中の会計や、庶務に従う御賄頭、勘使兼御買物方、御普請掛、御勘定役などの諸役人は、どれも祿高百俵内外の旗本とか御家人とかいう将軍お目見え以下の軽い武士であった。そして、宮中のご方々には会計のことに手をつけさせなかったから、この諸役人共はまことに畏れ多いことながら僅かな皇室費を横領しようとしていた。そこで、宮中の欠乏は、一層甚だしかった。
 不埒《ふらち》な役人共は、奸商と結んで賄賂をとり、不当な高価で品物を買い入れ、または鞘取りをする。されば、宮中はますます窮迫して借越《かりこし》が重なり、三年も四年も後のものを使用せねばならぬほどになった。
 ところが、この奸吏共の悪事が安永三年の八月に至って抉剔《けってき》され、一斉検挙となったのである。禁裡御賄頭田村肥後、御勘使津田能登、服部左門、御買物役西池主鈴などという武士は捕われて打ち首となった。そのほか押込、追放、京構、江戸構などの刑に処せられたものが、百八十余人の多きにのぼった。
 それから後というもの、幕府は宮中会計のことについて吟味を厳にし、供御の調度に制限を設け、ご台所の費用を、一ヵ年銀七百四十貫、つまり当時の金額で一万両あまり、と定めた。そして、当時の相場をもってご用品の標準値段を定めたのである。主なるものを挙げてみると、鯛は長さ一寸につき代銀四分一厘。これは鯛の目の端に曲尺を当て、尾筒のところの鱗三枚を余して魚の体長をはかるのであった。蛤《はまぐり》は一箇の代銀二厘六毛、貝の縦の長さ二寸が標準であった。小鳥は、十羽の代が銀一分七厘三毛。蕨は、一把五十本束代銀五厘二毛、などというのであった。
 けれど市中の物価というものは、常に一定しているものではない。宮中のご用品も相場に支配される訳のものであったが、その買入値段を上下させることは幕府がこれを許さなかった。これが所謂《いわゆる》『安政の本途値段』と称するものである。
 こんな訳で、お賄方の役人共は、もう不当の値段で物を買い入れたり、賄賂を貪ったりできなくなったが、こんどは、やたらに節約の実行をはじめた。まことに、面にくきことであったのである。つまり、前任者が年に一万両の予算を費《つか》ったとすれば、次の年の役人は九千五百両で仕上げ、その次の役人は九千両に節約して、宮中の費用を縮めるのを手柄とした。そして、この功により食祿の加増や、栄転を目的にしたのであった。
 そうでない奴は、買物の中からカスリを取ろうとした。その手段は、買入の品物の品質を落として値段の鞘を取った。

     待宵の鱠《なます》

『本途値段』は元来、安永時代の相場で作ったのであるから、それから何年かたつに從い何れの品物も、本途値段と隔たりが生まれてくるのは当然である。その上、役人が商人との間に立って鞘を取ったのであるから、宮中へ納める品々の質が下落するのは論ずるまでもない。禁裡がいやが上にも窮乏に陥った。
 されば、主上に供え奉るご正膳も、ご副膳も次第にご質素となり、ついにはお食物のなかへ申すも畏いことであるがお口にすることのできない品さえ、一つや二つ混じったのであった。そこで、御膳方吟味役は、主上におものを奉るに当たって魚類、野菜の新しいか、古いかを鑑定した上で、『これは召しあがれます』、『これは召しあがれません』と、一つ一つ印をつけて、奉献したのであった。主上はその印をご覧の上で、お箸を取らせられたのであるそうである。
 左のようなお話も伝わっている。ほんとうに、勿体ないことである。
 光格天皇は、御位をお譲りになり、上皇となられた。天保の初年の秋であった。上皇は、折りから望の月東山の松の上に昇り、夜の凉風肌を慰むる興に惹《ひ》かせられ、御殿の御階近くへ出御、光遍き秋空に、禁庭の荻叢に歌う虫の音に、ご興尽くるところを知らず、一膳を用意するよう仰せられた。そして、上皇は御階の近くへ仮の御座を設けさせられた。
 近侍の公卿はこれを畏みて、御板許に供御を命ずると、その当夜の内膳司は、思いがけなきご用命に接して、何かお肴をも奉らんと厨房を捜したが、何もない。
『夕べの御食《みけ》奉りし後は、何参らせん品もございません』
 と、近侍の公卿に復命した。
『けれど、せっかくの思召《おぼしめ》さるる観月のお莚に、何も奉らないのは、さぞかしご本意なく思召さるるでありましょう』
 と、公卿はさびしく、つぶやいた。そこで内膳司も、いまさらながら禁裡の欠乏を嘆いたが、と言って何ともなる訳には参らず、思案に余った末、まことに恐懼に堪えない[#「堪えない」は底本では「勘えない」]次第ではあるけれど、一つ思い当たることがあった。
 それは、自分が晩酌の肴にしようと思って、しまって置いた鱧《はも》の皮に気がついたのである。この鱧の皮は、既に焼いたものであった。それは、お肴として、場合として、如何かと思ったのだが、これを取り出して大根と共に細かく刻み、鱠《なます》のように調理して、お銚子に添え、近侍の公卿まで運びきたった。公卿はこれを上皇に進め参らすと、龍顔麗わしくご盞を重ねられた上、この鱠をご賞美遊ばされた。そして、この鱠は何という魚にて作りしか、さても珍味に思うという意味のお言葉を賜わった。けれど、
(これは、実は内膳司の晩酌の肴を奉りました)
 こう、ほんとうのことが申し上げられるものではない。公卿は背に汗を流した。
『これは、下賎の者の口に仕る鱧の皮にて、今宵俄のご宴に、何の用意もなかりし故、内膳司のしまい置きしを調理して奉りました』
 公卿は、恐懼に堪えぬままに、こうお答え申し上げたところ、上皇には、いささかのお咎めもなく、さるにても美饌なる哉。これからも、度々、供御に用意せよ。けれど、下々の嗜める鱧の皮とあっては聞こえいと悪《わろ》し、この日よりこの肴を『待宵の鱠』と命名せよ。と仰せられて、ご機嫌なみなみならずうるわしかったと伝う。
 上皇は、孝明天皇にはご祖父宮に当たらせらるる。
 お父宮仁孝天皇のお時代、宮中のご窮乏はひとしおであったのである。
 宮中の嘉例として、新年の御宴には雉子酒を、参賀者に下し賜わった。雉子酒というは、雉子の笹肉を熱い酒に入れて、賞啖するのであった。けれど、当時宮中において雉子を求めるなど思いも寄らなかったのである。そこでやむを得ず、焼豆腐を雉子の肉の代わりに酒の中へ入れ、雉子酒と謂って賜わった。という話さえあったのだ。

     宮中の寄せ鍋

 また、主上ご日常の御膳には、鮮鯛を奉ることになっていた。けれど、当時交通不便な京都にあっては、あまりの高価で手もつけられなかった。殊に、例の『本途値段』で買い入れようとしたのでは、ろくなものが御膳所へ運ばれなかったのである。
 そんなありさまで、少々古い鯛でも主上に奉った。これは、普通の調理では膳に上らすことができない。そこで、高い熱の火にかけて長い時間煮つめた上、献ったので、そのために鯛は肉がばらばらになり、形が変わってまことに不格好な割烹ができあがるのであった。その上、吟味役が検査してから膳を運ぶのであるから、調理後時間がたち冷たくなって、冬など到底お口にされるに堪えられぬご様子を、恐れ多くも近侍の者は推察申しあげたそうである。
 そんな時には別に侍従から内膳司へ命じて雑魚と野菜の類を集めて一つ鍋で煮込みとした。つまり今日の寄せ鍋か、チリ鍋のようにして進め参らせたのであった。
 孝明天皇はお酒をお嗜みになられた。とは申せ、宮中供御のことは、いつも不足勝ちである。であるから、陶然としてご興を催さるることなど思いもより申さず、ご思案の末、酒に水を加え量を増して、お莚を楽しませられたというお話を聞いては、まことに恐懼の至りである。
 公卿達が、偶々《たまたま》縁者の諸侯から、田舎の産物を贈って貰うと必ずこれを献上した。天皇は、これを殊の外[#「殊の外」は底本では「殊に外」]ご賞美遊ばされたと言う。かつて久我家が縁家から海老を贈られたのでこれを内献申しあげたところ、天皇はいとも、ご満足に思召された。そして、間もなく、
『再びこれを得たらんには、割愛を望む』
 との、ご宸翰を賜わったほどであった。
 また、水戸家であったか、毛利侯であったか、ある時、塩鮭を伝献申しあげ
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