きにのぼった。
 それから後というもの、幕府は宮中会計のことについて吟味を厳にし、供御の調度に制限を設け、ご台所の費用を、一ヵ年銀七百四十貫、つまり当時の金額で一万両あまり、と定めた。そして、当時の相場をもってご用品の標準値段を定めたのである。主なるものを挙げてみると、鯛は長さ一寸につき代銀四分一厘。これは鯛の目の端に曲尺を当て、尾筒のところの鱗三枚を余して魚の体長をはかるのであった。蛤《はまぐり》は一箇の代銀二厘六毛、貝の縦の長さ二寸が標準であった。小鳥は、十羽の代が銀一分七厘三毛。蕨は、一把五十本束代銀五厘二毛、などというのであった。
 けれど市中の物価というものは、常に一定しているものではない。宮中のご用品も相場に支配される訳のものであったが、その買入値段を上下させることは幕府がこれを許さなかった。これが所謂《いわゆる》『安政の本途値段』と称するものである。
 こんな訳で、お賄方の役人共は、もう不当の値段で物を買い入れたり、賄賂を貪ったりできなくなったが、こんどは、やたらに節約の実行をはじめた。まことに、面にくきことであったのである。つまり、前任者が年に一万両の予算を費《つか》ったとすれば、次の年の役人は九千五百両で仕上げ、その次の役人は九千両に節約して、宮中の費用を縮めるのを手柄とした。そして、この功により食祿の加増や、栄転を目的にしたのであった。
 そうでない奴は、買物の中からカスリを取ろうとした。その手段は、買入の品物の品質を落として値段の鞘を取った。

     待宵の鱠《なます》

『本途値段』は元来、安永時代の相場で作ったのであるから、それから何年かたつに從い何れの品物も、本途値段と隔たりが生まれてくるのは当然である。その上、役人が商人との間に立って鞘を取ったのであるから、宮中へ納める品々の質が下落するのは論ずるまでもない。禁裡がいやが上にも窮乏に陥った。
 されば、主上に供え奉るご正膳も、ご副膳も次第にご質素となり、ついにはお食物のなかへ申すも畏いことであるがお口にすることのできない品さえ、一つや二つ混じったのであった。そこで、御膳方吟味役は、主上におものを奉るに当たって魚類、野菜の新しいか、古いかを鑑定した上で、『これは召しあがれます』、『これは召しあがれません』と、一つ一つ印をつけて、奉献したのであった。主上はその印をご覧の上で、お箸を取らせられたのであるそうである。
 左のようなお話も伝わっている。ほんとうに、勿体ないことである。
 光格天皇は、御位をお譲りになり、上皇となられた。天保の初年の秋であった。上皇は、折りから望の月東山の松の上に昇り、夜の凉風肌を慰むる興に惹《ひ》かせられ、御殿の御階近くへ出御、光遍き秋空に、禁庭の荻叢に歌う虫の音に、ご興尽くるところを知らず、一膳を用意するよう仰せられた。そして、上皇は御階の近くへ仮の御座を設けさせられた。
 近侍の公卿はこれを畏みて、御板許に供御を命ずると、その当夜の内膳司は、思いがけなきご用命に接して、何かお肴をも奉らんと厨房を捜したが、何もない。
『夕べの御食《みけ》奉りし後は、何参らせん品もございません』
 と、近侍の公卿に復命した。
『けれど、せっかくの思召《おぼしめ》さるる観月のお莚に、何も奉らないのは、さぞかしご本意なく思召さるるでありましょう』
 と、公卿はさびしく、つぶやいた。そこで内膳司も、いまさらながら禁裡の欠乏を嘆いたが、と言って何ともなる訳には参らず、思案に余った末、まことに恐懼に堪えない[#「堪えない」は底本では「勘えない」]次第ではあるけれど、一つ思い当たることがあった。
 それは、自分が晩酌の肴にしようと思って、しまって置いた鱧《はも》の皮に気がついたのである。この鱧の皮は、既に焼いたものであった。それは、お肴として、場合として、如何かと思ったのだが、これを取り出して大根と共に細かく刻み、鱠《なます》のように調理して、お銚子に添え、近侍の公卿まで運びきたった。公卿はこれを上皇に進め参らすと、龍顔麗わしくご盞を重ねられた上、この鱠をご賞美遊ばされた。そして、この鱠は何という魚にて作りしか、さても珍味に思うという意味のお言葉を賜わった。けれど、
(これは、実は内膳司の晩酌の肴を奉りました)
 こう、ほんとうのことが申し上げられるものではない。公卿は背に汗を流した。
『これは、下賎の者の口に仕る鱧の皮にて、今宵俄のご宴に、何の用意もなかりし故、内膳司のしまい置きしを調理して奉りました』
 公卿は、恐懼に堪えぬままに、こうお答え申し上げたところ、上皇には、いささかのお咎めもなく、さるにても美饌なる哉。これからも、度々、供御に用意せよ。けれど、下々の嗜める鱧の皮とあっては聞こえいと悪《わろ》し、この日よりこの肴を『待宵の鱠』と命名せよ
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