、何ごとにも禁裡を冷たく見てきた徳川幕府の首脳部は、
『俄に、御料を増すことは罷《まか》りならぬ』
 こうこたえて、所司代の申出を斥《しりぞ》けてしまったのである。酒井は、どうすることもできないで、自らそくばくの金を献上して、御内膳の資に供えたという。
 この、朝廷の供御欠乏のありさまを、実際に幕吏が拝しあげたのは、堀田正睦が上洛した時より、少し後の事であった。
 幕末時代における禁裡のご模様を記した書物を読み、また古老の話を伝え聞けば、いまの宮中のご盛事に思い比べて、ほんとうであったろうかと疑われて、畏れ多いことばかりである。

     僅かに一万両

 孝明天皇ご即位前後、禁裡御料のことは代官小堀が代々管掌していた。代官小堀は、禁裡と仙洞御所の諸官からの申告によって、宮中一ヵ年の収支を計算し、これを京都所司代へ差し出した。所司代は、一応これを検査して江戸の幕府へ送り、その裁可を経たところで、はじめて所要の額を代官から支出させていた。
 けれど、宮中の諸費用は幕府から少しばかり支出される金や、御料地の産物位では、到底こと足りるものではなかった。であるから、代官小堀はやむを得ず別途の金で立て替え支弁をなし、その翌年度の収納でこれを償い、なおその余りで年度の末までを賄うありさまであった。謂わば遣り繰り算段であったのである。
 又このようにご窮乏のうちにある宮中の会計や、庶務に従う御賄頭、勘使兼御買物方、御普請掛、御勘定役などの諸役人は、どれも祿高百俵内外の旗本とか御家人とかいう将軍お目見え以下の軽い武士であった。そして、宮中のご方々には会計のことに手をつけさせなかったから、この諸役人共はまことに畏れ多いことながら僅かな皇室費を横領しようとしていた。そこで、宮中の欠乏は、一層甚だしかった。
 不埒《ふらち》な役人共は、奸商と結んで賄賂をとり、不当な高価で品物を買い入れ、または鞘取りをする。されば、宮中はますます窮迫して借越《かりこし》が重なり、三年も四年も後のものを使用せねばならぬほどになった。
 ところが、この奸吏共の悪事が安永三年の八月に至って抉剔《けってき》され、一斉検挙となったのである。禁裡御賄頭田村肥後、御勘使津田能登、服部左門、御買物役西池主鈴などという武士は捕われて打ち首となった。そのほか押込、追放、京構、江戸構などの刑に処せられたものが、百八十余人の多
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