と上州とに跨《また》がる浅間山が爆発して熔岩を押しだし、それが利根川の下流まで流れ溢れ、私の村の近くは火石の原と化したのである。その後、火石の原に楢《なら》や椚《くぬぎ》、栗などの雑木が生い繁って平地と化したのであるが、そこへどこからともなく狸が移り棲んで繁殖したのである。
村の七蔵爺さんというのは、狸と仲よしであったとのことであった。私も子供のとき利根川畔の雑木林へ早春の虎杖《いたどり》の若芽を採りに行くと崖の下の陽《ひ》だまりのところに、狸のため糞が山と積んであるのを見た。また時には狸の子供が五、六匹、穴の入口で角力《すもう》などとって戯れているのを見たことがある。晩秋になると、雑木林の方から枯草ぼうぼうたる私の広い屋敷へ、狸が毎夜遊びにきた。私の屋敷には、樫の木が数多くあって秋になるとそれから小|団栗《どんぐり》が落ちたからだ。狸はヒョウヒョウと鳴く。夕飯がすんで寝る頃になると、ヒョウヒョウと細い鳴き声が次第に屋敷のまわりへ近づいてくる。幼い私は、その声をきくと恐《こわ》さに祖母の膝へしがみついた。そして祖母の寝物語に、カチカチ山の爺さんが狸婆さんに狸汁だと騙されて婆汁を食ったというお伽噺をきき、狸は凄い妖術を持っている獣であると、ひどく感心したものであった。
そんな次第であるから、これから後、楢の木の大団栗はもちろんのこと、樫の木の小団栗に至るまで清酒醸造の資料になってしまったなら、わが故郷の狸どもは食糧難にいかなる対策を講ずることであろう。
三
それはとにかくとして、私は祖母の懐《ふところ》でカチカチ山の噺《はなし》をきいてからというもの、狸汁について深い興味を持ちはじめたのである。南支の広州に、三蛇会料理というのがある。これは蝮《まむし》、はぶ、こぶらの三毒蛇を生きながら皮を剥ぎとり、肉をそぎ身にして細かく叩き、鼎《かなえ》にかけた鍋のなかへ投ずる。鍋のなかには予め羹《あつもの》が煮えたぎっていて、三蛇は互いに毒をもって毒を制し、その甘味、その肥爛まことにたとうべからずというのである。さらに加役として支那|芹《せり》と菊の華をあしらい、ついで餅と狸の肉を入れるのだ。
つまり、広州の三蛇会料理というのは、日本のちり鍋で、へび[#「へび」に傍点]ちりとかたぬ[#「たぬ」に傍点]ちりとか呼んでいいのかも知れない。こんなわけで、狸は支那の代表的料理の主役を勤め、第一その肉は人の肺気を強くし、脾胃を補い、皮は裘《かわごろも》を製し、骨は邪気を除くと本草に見えている。さらに狸は冬月に極肥し、山珍の主なりと説明しているから、狸汁に憧憬する者、あにわれ一人ならんやと、多年思ってきたのであった。
ところで数年前ある冬の夜、虎の門のさる料亭で狸汁の試食会をやるという話を伝えきいた。私は待望の機きたれりとばかりその試食会へ駆けつけた。集まっている人々の顔ぶれを見ると市内有数の割烹店の主人、待合の女将、食通、料理人組合の幹部といった連中で、どれもひとかどの者ばかりであった。配膳が終わると主催者が立って挨拶をはじめ、[#「、」は底本では「,」]ついで長々と狸肉の味について、その蘊蓄を傾けるのである。
私には、その蘊蓄など、どうでもよろしい。一刻も早く狸肉に接して、その漿《しょう》を賞翫《しょうがん》したいと思っているのだが、なかなか本ものが出てこないのである。出るものいずれも月並みの会席料理で、これは一杯食わされたかと考えていると、主催者から、これから、いよいよ狸汁を差しあげますという宣言があった。
しばらく待つと、黄筋入黒塗りの椀が運ばれてきた。なかは信州味噌を漉《こ》した味噌汁である。不躾《ぶしつ》けながら箸のさきで椀のなかを掻きまわしてみた。さつま芋の賽の目に切ったものが、菜味としてふんだんに入っている。狸はどこにいるやと、なお丹念に掻きまわしたが、狸肉らしいものがでてこない。それでも諦めずにやっていると椀の底の方から、長さ曲尺にして五分、太さは耳かきの棒ほどの肉片が二筋でてきた。これ即ち、今晩の呼び物であったかと推察し、箸につまんで口中へ放り込み、つぶさに奥歯と舌端で耽味したのであったが、これはまたほんとうに何の味も素っ気もないものであった。だし汁を取るとき、煮だした鶏骨に僅かにしがみついている肉|滓《かす》に似て、それよりも無味である。あたかも、誤って汁のなかへ混入した木片を噛むようなものであった。果たして、これが狸肉であるかどうか知らない。かりにこれが狸肉であったにしたところで、こうまで煮だしてあくを抜き、狸の特徴とするところの土臭を去ってしまっては、なんの変哲もない汁ではないかと思う。
とうとう、してやられた。だが、相手が瓢軽洒脱《ひょうけいしゃだつ》、甚だ愛敬のある狸であってみれば腹もたつまい。
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