買つていたゞきましたから、「もう十分ですのに」とは申しましたが、若い時ですからやはり喜びました。その羽を覚つかない手附で帽子に綴ぢつけなどしました。
 さうして九月もいつか二十日ほど過ぎた或日、独逸の婦人が兄の後を追つて来て、築地の精養軒にゐるといふ話を聞いた時は、どんなに驚いたでせうか。婦人の名はエリスといふのです。次兄がそのことを大学へ知らせに来たので、主人は授業が終るとすぐ様子を聞くために千住へ行つたといふ知らせがありました。さあ心配でたまりません。無事に帰朝されて、やつと安心したばかりですのに、どんな人なのだらう。まさか詰らない人と知合になどとは思ひますけれど、それまで主人の知己の誰彼が外国から女を連れて帰られて、その扱ひに難儀をしてゐられるのもあるし、残して来た先方への送金に、ひどくお困りなさる方のあることなども聞いてゐたものですから、それだけ心配になるのでした。
 夜更けて帰つた主人に、どんな様子かと聞いて見ても、簡単に分る筈がありません。たゞ好人物だといふのに安心しました。事情も分つたらそれほど無理もいふまいとの話に頼みを懸けたのです。
 それから主人は、日毎といふやうに精養軒通ひを始めました。非常に忙しい中を繰合せて行くのです。次兄はまだ学生ですし、語学も不十分です。兄は厳しい人目があります。軍服を著て、役所の帰りに女に逢ひには行かれません。それに較べると主人は気楽ですから、千住では頼りにして、頻りに縋られます。父は性質として齷齪なさいません。どうにかなるだらうくらゐの様子でしたが、母は痩せるほどの苦労をなさいました。何しろ日本の事情や森家の様子を、納得の行くやうに、ゆつくり話さねばなりません。かれこれする内に月も変りました。
 その頃の主人の日記に、「今日は模様宜し」とか、「今日はむつかし」などと書いてありますのは、エリスとのことでせう。前にもいつたやうに、北海道で発掘した人骨を詰めた荷物がつぎつぎと著きますので、それらは決して人任せにはせられません。どんな破片でも大切なのですから。但しそれで忙しいのは楽しみらしいのですが、今度のことは、私としては、兄のためといふばかりでなく、父母のためにも、いひかへれば家の名誉のためにも尽力して貰ひたいと思ふのですから、主人の日々の食事にも気を附け、そろそろ寒くなるにつけて、夜は暖かにしてなどと気を配ります。もともと主人は洋行中から名代の病人だつたので、たゞ養生一つで持ちこたへてゐたのでした。私が小金井へ来ました時、「よく評判の病人のところへよこしたなあ」と笑つたくらゐです。今度のことは、すらすら運ぶ用事とは違ひますから、主人も千住へ行くと、夜更けに車で送つて貰ふのです。用談も手間取りますが、さうした中でも未開な北海道の旅行中に幾度も落馬したこと、アイヌ小屋で蚤袋といふ大きな袋に這入つて寝て睡りかねたこと、前日乗つた馬が綱を切つて逃げたために、土人と共に遠路をとぼとぼ歩いたことなどを話して、心配中の人々を暫時でも笑はせなどしました。
 日記にはなほ賀古氏と相談したともしてあります。賀古氏も定めし案じて下すつたのでせう。でも直接その話には関係なさらなかつたやうです。
 十月十七日になつて、エリスは帰国することになりました。だんだん周囲の様子も分り、自分の思違へしてゐたことにも気が附いてあきらめたのでせう。もともと好人物なのでしたから。その出発に就いては、出来るだけのことをして、土産も持たせ、費用その外の雑事はすべて次兄が奔走しました。前晩から兄と次兄と主人とがエリスと共に横浜に一泊し、翌朝は五時に起き、七時半に艀舟で本船ジェネラル、ウェルダーの出帆するのを見送りました。在京は一月足らずでした。
 思へばエリスも気の毒な人でした。留学生達が富豪だなどといふのに欺かれて、単身はるばる尋ねて来て、得るところもなくて帰るのは、智慧が足りないといへばそれまでながら、哀れなことと思はれます。
 後、兄の部屋の棚の上には、緑の繻子で作つた立派なハンケチ入れに、MとRとのモノグラムを金糸で鮮やかに縫取りしたのが置いてありました。それを見た時、噂にのみ聞いて一目も見なかつた、人のよいエリスの面影が私の目に浮びました。



底本:「日本の名随筆 別巻31 留学」作品社
   1993(平成5)年9月25日第1刷発行
底本の親本:「鴎外の思ひ出」八木書店
   1956(昭和31)年1月発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2006年11月17日作成
青空文庫作成ファイル:
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