ませんでした。或夏の朝明方、坂の下に立っていますと、米峰氏が来られました。「どちらへ」とお互いに申しまして、「池《いけ》の端《はた》まで」といいましたら、「私も」といわれます。上野|不忍池《しのばずのいけ》で催す蓮《はす》の会へ案内を受けたのです。会主の大賀《おおが》一郎氏は縁つづきになるのでした。米峰氏もそこへ行かれるので、御一緒に駕籠町《かごまち》で乗り換えて東照宮下《とうしょうぐうした》で降りました。何の御話をしたかよく覚えませんが、三宅雪嶺《みやけせつれい》氏御夫婦のお話をなすったようです。何でも金婚式についての事で、「あなたは」とお聞きになりますから、「もうすみました」と申しましたら、「やあ」と仰しゃいました。雪嶺夫人の花圃《かほ》さんは私の学校の御出身です。池の蓮は真盛《まっさかり》で、朝風が心地よく吹き渡って、会場には最早大勢の人が集まっていました。乗って漕《こ》ぎ廻らせるために、小舟が繋《つな》いでありました。戦後の食糧事情のため、池の大部分は水田に代えられて、昔の面影はありません。大賀氏は残念がっていられました。今年などはどうなることでしょう。
その鶏声堂に、中年の女の人が、冬はいつも真綿《まわた》の背負子《しょいこ》を著《き》ていました。不断は何の気も附かない宅の主人が、「あの人は越後《えちご》ではなかろうか」といいますので、顔馴染《かおなじみ》になった時聞きましたら、やはりそうでした。近親という事です。それは越後の風習で宅の母なども毎年修繕してつかいました。亀の子|笊《ざる》をふせて幾重ともなく真綿を拡《ひろ》げ、新しいのを上に被せます。よい加減の厚さになると浅葱《あさぎ》などに染めたのを上に被せ、薄い布海苔《ふのり》を引きます。染綿は汚目《よごれめ》の附かぬため羽織と著物《きもの》との間に挟んだり上に背負ったりするのに、べたべたせぬために布海苔を引くのです。
私の家は坂を上ったすぐ右手にあって、門の内に幾百年も経たらしい松の大木がありました。そこらは山ででもあったのを崩したのでしょう。太い根がすっかり顕《あらわ》れて、縦横になっていてよい腰掛でした。ここらは皆土井家の地所なので、向い側は広い馬場になっていました。低い土手がずっと廻って、そこにも四、五本松の大木がありました。その土手には春は菫《すみれ》が咲き、土筆《つくし》などもぽつぽつ出るので、そこらの子供が這い上っては遊びました。そこをまだ若い土井の息子さんが、友達と一緒に馬を走らせるのが土手の上から見えました。老年になってからのお子さんで、大切になさるのだと聞きました。馬場はまた弓射場にもなっているので、月に幾日か弓袋を持った人が出入して、的に中《あた》る矢の音が聞えます。その人たちの休む仮屋が片隅の二本杉の傍にあって、賑《にぎ》やかな人声もしますが、常は静かなもので雉子《きじ》が遊んでい、夜は梟《ふくろう》の声も聞えます。二本杉は名高いもので、昔何代目かの将軍が、野立《のだて》の時|箸《はし》を立てられたのだといい伝えられて、白山上からもよく見えました。門前の松の根に休んでいますと、杉や松の梢《こずえ》を渡る風は颯々《さつさつ》の音を立てて、暑中も暑さを忘れます。人通りもありませんから、夜はよく出て涼みました。
或夏の夜、そこに休んでいますと、暗い坂の下から歩いて来る人がありました。近寄りましたらお兄様でした。
「まあお珍らしい。さあどうぞ。」
「いや、坂下まで昨夜も来たのだが、今夜も来たからこっちから帰ろうと思って。歩いてここらを通るのは珍らしいよ。ここは涼しいね。」
ずんずん行っておしまいになりました。吉祥寺《きっしょうじ》の方からお帰りになるのでしょう。馬場はもとより、宅の並びにも門灯の附いているのは一、二軒ですから、月もない頃で、下駄の音がまだ聞えるのに、もう姿は見えません。遠くで梟が鳴いています。いずれ本屋でしょうが、どんな御本がお気に入ったのかと思いました。御手には杖《つえ》ばかりのようでした。
その後団子坂へ伺った時、聞いて見ました。「この間はどんな本をお求めになりましたの。二晩もつづけてお出《いで》になるのは、よほどお気に入ったからでしょうと思いました。」
「いや、あれは神田《かんだ》の方で買った古本に落丁《らくちょう》があってね。ちょうどその本があそこにあったから、買って来てそこだけ取って補充したのさ。二部は不用だし、向うは商売だから、また相手もあろうと思って、持って行ってやった帰りだった。多分その話はせずに、また誰かに売るのだろう。こっちは話したのだから疚《やま》しくはないがね。」
「そんなお客さんは滅多にありますまい。何の御本でしたの。」
伺いましたが、「なに」としか仰しゃいませんでした、きっと私などには縁の遠い
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