をなさるのでした。私に見せて下さるばかりでなく、御自分が見たくてお買いになって、その跡を下さるのです。
博文館の『日本文学全書』や『日本歌学全書』が出るようになってから、手軽に本が手に入るので、次々と買って読みます。木版本は本箱に積んで置いて、折々出して見るのでした。
女学校の始めの頃に学校で読みましたのは『徒然草抜穂《つれづれぐさばっすい》』『土佐日記』『竹取物語』などで、きっと教科書用に拵《こしら》えたのでしょう、誰にでもやさしく読める本でした。学校も始めはお茶《ちゃ》の水《みず》でしたが、上野《うえの》になり、一《ひと》ッ橋《ばし》に移って行き、その間に校長も先生もたびたび代ります。平田|盛胤《もりたね》という若い国語の先生が見えました。平田|篤胤《あつたね》の御子孫だそうで、尤《もっと》も御養子とのことでした。『土佐日記』の一節を一わたり講義なすって、「不審のある方は手を挙げて」とおっしゃると、幾人もいない生徒のあちこちから手があがります。注釈本でも見たら一目で解るものをと思いますのに。
同級に土佐出身の身分の良い家のお嬢さんがいられて、美しいお方でしたが、
「かみがらにやあらん、くにびとの心のつねとして、いまはとて見えざなるを、心あるものははぢずぞなん来ける。これはものによりてほむるにしもあらず。」
このことを先生は気の毒がって、「こんなに書いてありますが」と言いわけをなさるのを、皆笑いました。お家におりおり発作をお起しになる御病気のお母様があったそうで、時間中にお迎いが来ることなどがありましたが、やがてお出《いで》にならなくなりました。
漢文の先生は背の高い中年の太った方でした。赤いお顔をはっきり覚えています。小森先生とかいいました。御自分で、いろいろの本から抜萃《ばっすい》されたのを仮綴にして配られなどされましたが、この方も間もなくおやめになりました。
級が進んでから中村秋香《なかむらしゅうこう》先生が見えました。お歳は五十歳位でしょうか、痩《や》せた小柄の更《ふ》けて見える方で、五分刈《ごぶがり》の頭も大分白く、うつ向いた襟元《えりもと》が痛々しいようです。厚い眼鏡の蔭から生徒たちを見廻されます。始めて出られた時、自分が好む本だからと、新井白石《あらいはくせき》の『藩翰譜《はんかんぷ》』を持って来られて、右手を隠しに入れ、左の手に本を持っ
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