るのです。日の照りつける時は、傘を持たせると忘れたり破ったりするからと、托鉢《たくはつ》のお坊さんの被《かぶ》るような、竹で編んだ大きな深い笠《かさ》を冠《かぶ》ります。その頃お兄様は絵をお書きになったので、その笠には墨で蘭が画いてありました。赤い切で縫った太い紐《ひも》が附いていて、顎《あご》で結ぶのでした。荷物を斜めに背負って、ちょこちょこ出かけますと、茸《きのこ》が歩いて行くといって笑われますが、一向平気なものでした。その荷物は、読本と縦四寸横六寸位の小さな石盤《せきばん》とで、木の枠に石盤拭きが糸で下げてあります。遣いつけたら離されません。学校へ置いて来たらといわれても、いつも往《ゆ》き返りに背負っていました。石筆《せきひつ》に堅いのと柔かなのとあって、堅いのを細く削って書くのでした。
 学校は大きな料理屋の跡らしく、三囲《みめぐり》神社の少し手前でした。立木が繁って、大きな池があり、池には飛石が並んでいました。子供たちが面白がって渡っては、よく落ちたものでした。運動場はかなり広い砂地で、細い道を隔てて田圃でした。その隅に丸太が立っていて、牛島小学校と染めた旗が附けてありました。
 冬になりますと、男の子たちは柵《さく》から抜出して、田圃の稲株の間に張った厚氷を、石で割って持って来ます。お辞儀をしてそれを分けてもらってはしゃぶりました。よく中《あた》らなかったことと思います。
 教室の数はかなりあったようです。お兄さんは上の級にいられて、成績はいいがいたずらだといわれていました。今も覚えているのは読方の時間です。先生が一くぎりずつ読まれますと、二、三十人いる男女の生徒が、一緒に続いて読むのですが、妙に節を附けて読む先生の癖をまねて、その賑かなこと、学校の傍を通る人が立止るほどでした。

 少しして小梅村へ引移りました。二百余坪の地所に、三十坪ばかりの風雅な藁屋根の家でした。それまでは何しろ往来に近い手狭《てぜま》な家で、患者が来ますと困るからです。今度の家は大角とかいった質屋の隠居所で、庭道楽だったそうで、立派な木や石が這入《はい》っていました。人の話を聞いてお父様がお出かけになって、一度御覧になったらすっかりお気に入って、是非買うとおっしゃいます。曳舟《ひきふね》の通りが田圃を隔てて見えるほど奥まった家なのですから、私の学校へも遠くなるし、来る病人も困るだ
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