きましたら、目を閉じたまま、「ああ行ってお出《いで》」と仰しゃるので、喜びはしましたが、お婆さんが鼻緒を直していますので、履物《はきもの》がありません。
「吹井戸を見たいのだけれど」といいましたら、お婆さんはそこに脱ぎ捨ててある草履《ぞうり》をさして、「それを穿いていらっしゃい。滑りますよ」といいます。
足の倍もあるのをはいて、丸太を段にした狭い坂をそろそろ下りて行きます。古い井戸側は半分朽ちて、まっ青な苔《こけ》が厚くついていて、その水のきれいなこと、溢《あふ》れる水はちょろちょろ流れて傍の田圃へ這入ります。釣瓶《つるべ》はなくて、木の杓《しゃく》がついていました。胡瓜《きゅうり》が二本ほど浮いて動いています。流には目高《めだか》でしょう。小さな魚がついついと泳いでいます。水すましも浮いています。天気つづきで田にはよく稲が育って、あちこちで蛙《かえる》がころころ鳴いて、前に長く住んだ向島小梅村の家を思い出しました。いつまでも飽きずにじっとしていましたら、上から「おい、おい」とお呼びになります。「はい」と答えて、急いで上りましたら、
「葛餅《くずもち》が来たよ。お食べ。」
お婆さんの傍にある手桶《ておけ》の水で手を洗い、さて坐って見ますと、竹箸《たけばし》が剥《は》げて気味がわるいので、紙で拭《ふ》いて戴《いただ》こうとして、「お兄さんは」と聞きますと、
「おれはいい。それもお食べ」と、お茶を飲んでいらっしゃいます。「まさか」と思わず笑いました。家を出てから初めて笑ったのです。葛餅はそれほどおいしくもありませんでした。
暫くしてから、「そろそろ帰ろうか」と仰しゃるので、「それをお土産《みやげ》にしたらどうでしょう。」
「そんなら、もう少し足して」と、買い足して、経木《きょうぎ》に包んでくれたのを、ハンケチに包んで持ちました。
下駄は穿きよくなりますし、お兄様は物を仰しゃるし、何だか足も軽くてよい気持でした。帰りは土手の左手|遥《はる》かに火葬場の煙突が立っていますが、夜でなければ煙は見えません。お兄様の機嫌もよいようなので、
「さっきのあそこからは、向島の方は見えないようですよ。曇っているせいかしら。」
「見えないかも知れない、曲っているらしいから。今度は堀切《ほりきり》の辺へ行って見ようね。」
「私には歩けないでしょう。」
そんなことをいい合いました。
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