帰つて来た人の土産噺などを聞いて無暗に恐れをなす人のあるのも無理もないことであるが、贋物の多いのは何も明器に限つたわけでは無いし、又支那に限つたわけでも無い。何処の国でも古いものは贋物の方が多い。そこで明器買ひも頗る眉唾であるが、眉に唾ばかりつけても、わからない人には矢張りわからない。北京や上海や何処に行つたことがあつてもそれだけではわからない。支那人でもわからない人は矢張りわからない。しかしわかる人が見れば何でもなく直ぐ見分けがつく。贋物が恐いと尻込みする人は、私は美術がわかりませんと自白して居るのと同じことだから、さういふ人は手を出さぬ方がいゝであらう。
 贋物は支那製ばかりでは無く、独逸風の応用化学で巧に三彩の真似をしたものや、また日本製の物もある。或は遥々東京まで来てから、白粉の塗り直し黛の描き直し、着物の染め直しなどをやるのもある。又全く贋物と云ふ意識は無く、一種の尚古趣味から京都あたりの相当な陶工が自分の手腕を見せるつもりで真剣に作つたものもある。それ等も目のある人が見れば何の苦もなく見分けが附くものである。
 ところが私は誰も知る貧乏人であるのに今日までに、可なりの数まで集めるには随分骨が折れた。私の手まへとして一個百円前後もする物をいくつも買ふことは出来るわけがない。そこで私は月給のあまりで足りない時は窮余の一策として自分の書いた書画に値段を附けて展覧会を開いて、其収入でやうやく商人の支払を済ませたこともある。さういふ展覧会を私はこれまでに東京の銀座で一度、郷里で三度も開いた。こんな手もとで私があつめたものだから蒐集として人に誇るほどのものは何一つ無い。従つて安物づくめである。それこそゲテモノ展の観がある。しかし私は苟しくも早稲田大学で東洋美術史といふ少し私には荷物の勝つた講義を御引き受けして居る関係から、何も持たぬ、何も知らぬでは済まされないと思つて、とにかく微力の限り、むしろそれ以上を尽したものである。だから何処の役人に対しても、富豪に対しても、蒐集の貧弱を愧ぢる必要は少しも無いつもりである。明器の話は、私としては教場ですべき仕事の一つだから、ここでは先づこれ位のことで止めにする。
 私は最近に朝鮮の或る方面から、昔の新羅時代の古瓦を、破片混りではあるが四百個ばかり買入れた。これまで私の手もとにあつた日本や支那の古瓦二百個を加へると六百ほどになる
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