口で、皮膚を鳴らす毛の脱けた病気の犬の鳴き声であつたのだ。
 私は落胆した。
 ――凡太郎に合図をしてゐるやうですね、嫌らしい烏。
 妻は天井を仰いだ。いまにも屋根を剥いて持つてゆきさうに荒々しく屋根を渡り歩き烏どもは鳴きたてた。すると妻のいつたやうにいかにも凡太郎はその尾について
 ――かあ、かあ、かあ、かあ
 とやり出すのである。そして不吉な烏と、病気の犬との真似をものゝ十日もつゞけたのであつた。
『唖ではないだらうか』こんな不安を抱き始た。然しそれからまもなく凡太郎は、またもや奇妙な叫びをあげはじめた。
 ――まふ、まふ、まふ、まふ。
 最初はその意味がどうしても私達には判断が出来なかつた。
 ――貴方判りましたよ。凡太郎は牛の真似をしてゐるらしんです。
 妻は、或る日凡太郎を抱きあげながら窓際に立つて戸外をながめてゐたが、突然かういつた。
 私の家の近くに牧場があつた。そしてその牧柵が、私達の家の窓の下までも伸びてつゞいてゐた。

    (三)

 牛達はこれまでは、寒い気候なので、牧舎の中で飼はれてゐたが近頃になつて、晴た天気がつゞくので、牛達は雪の上に散歩にだされた。そして嬉し気に毎日
 ――もう、もう、もう、もう。と鳴いてゐた。
 凡太郎はその牛の鳴き声を覚えこんだものらしい。
 何時も片眼をつむつて考へことをしてゐる、底意地の悪さうな牛の鳴き声を凡太郎が覚えこんだことを知ると、私の理想主義が谷底に転げ落たやうな失望を感じた。
『花』『お日さま』『星』『蝶々』などといふ、麗しいものを覚えこまずに病気のごろつき犬や、不吉な鴉や尻に汚らしい糞を皿のやうに、くつゝけて済ました顔をしてゐる牛共の言葉を覚えこむとは何事だらう。
 ――しかし考へて見れば、無理もないことだらう。
 と私は思ひ返したのであつた。
 教へ込ませようとした『花』などは、冬の真中にゐて、到底子供の眼になど触れることが出来ないものであつた。
『太陽』は雪雲の中に、姿を隠してゐて、少しも顔を見せず、地を照してゐる明りは、太陽の光りではなかつた、雲の明りと雪の反射であつたし。
『蝶々』などの、ひら/\陽炎《かげろふ》の上を舞ふ春の季節には、まだ五ヶ月も経たなければならなかつたし。
 すべてがみな憂鬱な冬の姿の中の、静物のやうに、自分自身がもつてゐる光りで、僅かに自分の周囲の小さな部分を明るくして、生きていかなければならない、惨忍な季節であつたのだ。
 どうして幼い凡太郎が。
 生れてから、まだ一度も春にめぐり合つたことのない凡太郎が。『花』や『蝶々』や『星』の美しさを知る道理があるだらう。
 私の家の、唯一の訪問者である犬、鴉、牛、などの言葉を真似たことが、当然であつたのだ。
 ――色々の真似をするところを見ると、唖でもないやうですね。
 ――うむ。
 と私は妻に、うなづいて心の中で、
 ――今度は、きつと人間の言葉を覚えこむだらう。
 ことを期待してゐたのであつた。
 静かな日が何日も続いた。
 濃霧は、私達の家のめぐりを、とり囲んだ。
 この霧のたちこめた日は、私の感情をさま/″\に変へた。
 美しい夕方の薄い霧は、遠くの方を、幻のやうに見せて、なにか蜜のやうに、甘いものでもあるかのやうに、私をよろこばした。私は凡太郎を抱いて家の前に出て充分に凡太郎の小さい口に吸ひこました。
 すると凡太郎は、しまいには、しきりに嚔《くさめ》をするのであつた。
 怖ろしいのは夜更の濃い霧であつた、重い濡れた幕のやうに、小さな家の上に掩ひかぶさるやうな恐怖を感じた。
 その重いものは、はねのけてもはねのけても、匍つて来て屋根の上に白い獣のやうな腹を載つけた。
 硝子窓から、霧の戸外を覗いて見ると、一寸先も見えない。
 不意に霧の中に隠れてゐる何者かゞ、私達の家にむかつて、弾丸を撃ち込みはしないかといふ、不安に脅かされる日もあつた。
 私の家を訪ねるものは、獣や鴉の他に毎土曜日の、顔の黒ん坊のやうな、煙筒掃除人と、郵便配達の声位なものであつた。
 或る日、不意に二人のマルクスが私の家を訪ねて来た。

    (四)

 郊外になど住んでゐると、色々な物売が、女子供とみれば甘くみて、押つけがましく、恐喝らしく玄関先に品物を拡げ、買つてやらなければ何時までも立去らうとしないことが多い。
 殊に私を憤怒させるものは、神仏の押売をする人達であつた。
 性来神や仏といふものを嫌つてゐる私は、この神仏押売人の撃退策を、平素から妻に教へこんでゐた。
 ――妾《わたし》のところには神棚もお仏壇もありませんので、お札を頂戴してお粗末になつてはかへつて勿体ないと思ひますので。
 私はかう台詞を妻に教へこんであるのだ。
『天照皇太神宮』や『稲荷大明神』や『イヱスキリスト』などのお札売はチ※[
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