過去を持つてゐないことを心強く思つた。
『僕だつてさうだよ、明日からあなたは処女ぢやないんだらう、だから、これまでよりも瞳に太陽がキラ/\としみるんだ』
『名前もなにも聞かないで、あなたは別れようとするんでせう』
『それは卑怯でもなんでもないよ、だから明日の晩もこゝに味瓜を喰べにきたらいゝんだと言つてるのだよ』
 男は急に幸福を感じた。

    (八)

 一人の処女と一人の童貞とを、石ころを投げ捨るやうに、畑の茂みの中にほうり投てきたといふことに、どんなに娘さんが浮気であつたとしても、をそらくは明日の朝までは、男の魂のなかにとけこんでゐる、男の独占の喜ばしい感激がいつぱい湧いてきた。
 あそこの味瓜畑の泥にまみれた二つのもぎとられた味瓜が、だん/″\と夜更の露に洗清められてゐるやうな情景が、ふつと眼に映つた。が次の瞬間童貞を捨たといふ荒ら/\しい悔恨が頭をもたげてきたので彼はげら/″\と笑らひながら不意に女を突き離した。
『娘さん、驚いちやいけないんだよ、さ驚いちや駄目だよ僕はね、だが私はあなたに謝まつてはゐない』
『ねえ、どうしたつて言ふの』
『私がどんな悪魔の正体をうちあけても吃驚《びつくり》してはいやだよ』
『言つちまつたらいゝわ』
 女はちよつと好奇心の眼を光らした。
『娘さんよ、貴女は私を童貞だと思つてをいでゞすか』
 男はしやべりながら、飛んでもないことを言ひ出す自分の悪魔的な感情に、ひとりでに微笑がしみじみと湧いて来た、なんといふ素晴らしい自分であらうかと思つた、この娘さんをあくまでも征服し背後の梢の頂上《てつぺん》に烏のやうに、とまつてゐて、自由自在にこの娘さんの、初心《うぶ》な感情を操つてゐたならば、どんなに愉快に安眠ができるかと言ふことを想像をし続けた。
 盆踊りのたつた一夜の友人、明日の朝は永久に離ればなれになつて了ふ二人、対手の名も処も知らぬままに袂別をしようとするふたり、そして淫な野合の対手たとへ彼女が清浄であつたとしても男としては自らの分身を、未知であるこの歩いて居る娘さんに、無造作に奪ひ去られるといふ不安が急にこみあげてきた。
『あなたが童貞でなくつても、なんでもないわ、男なんてみな信用ををけないのが当り前のことなんでせう』
『そりや、その点では女よりも男の方が自由でせう、だが私はもつと、もつと怖ろしい出来事なんです、しやべつたらき
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