を示すやうに、氏はあまりに人間のために苦労をしてきたのである。地方生活者が行李を背負つて、東京に画業勉強にやつてきた場合には、彼が過去の生活地域の、人間が少なく、山水花鳥の多い自然の美しさを、例へ東京に永らく住んでゐても想像の魅惑は遂に消し難いものにちがひない相当の大家も自邸に無数の鳥籠を吊し、多種類の鳥獣を飼つて、日常的にこれらの鳥獣達の生活の姿態を観察し、素描し、制作化さなければ[#「さなければ」はママ]ならない、といふことは不幸なことである。しかし無数の鳥を飼ひ、生態を観察する機縁に恵まれてゐるのはまだ良いとして、第四流の山水、花鳥画家は鳥を飼ふこともできず師匠の屋敷で、鳥を写生させて貰つてゐるのである。在来の花鳥画の模写からも、彼が生来の自然人であれば、生きたやうに描くことも可能であらう、伊東深水氏がその美人画に於いて宛《あた》かも髪結の梳手のそれよりも綿密に、髪の線の配列を心得てゐるのも、氏は生来の都会人であり、江戸つ児であつたからその日常的な人間への接近への、より多くの機会を捉へ得るものでなければ不可能な業であらう、昭和九年の作「秋」では鏡台に向つた丸髷の女が、櫛で髪を掻きあげながら坐つてゐる図であるが、その絵から「秋」といふ主題を探しだして[#「探しだして」は底本では「深しだして」]みると、女の羽織の模様が紅葉を散らした模様であるといふ以外に特別に「秋」を想はせる何物もない、しかし何かしら「秋」を観者にぼんやりと感じさせるものが他にある。仔細に注意してみると女の敷いてゐる座布団の厚味に、作者がそつと人知れず工夫をこらしたものを発見することができる、座布団の厚味は春のものでも夏のものでもなく、将に秋のものである。冬を控へた秋の冷えを、そのふつくらとした座布団の厚味で表現してゐる、俳句に季題が重要視される理由は、あの十七文字の短かい形式の中にも「季」と称する自然現象を差し加へなければ、人間と自然との関係に於いて袂別するからである、人間と自然との関係の密着に依つて始めて世界観といふものがその作者に確立される、伊東氏はその人物画に於いても、俳人の季を尊重するやうに、季節を説明しない不用意な着物の重ね方は、その描くところの女に決してさせない、女の敷いてゐる座布団にも季を加へ女の襟元や裾さばきにちらりと見せてゐる着物の枚数を数へただけでも、彼女が秋の女か冬の女か、秋と冬との間にある女かわかる位である。日常性に於いて、その現象の移り変りを敏感に捉へるといふことこそ、風俗作家の重要な立場といふべきだらう。風俗画や、人物画家の難かしさは、画のテクニックの上の難かしさの以外に、その人物の背後関係、つまり生活環境を洞察し、これらの背後的なものの中に、人物を浮彫にしなければならない、ただ人物を描くといふだけで済まないものがある、伊東深水氏の作品はその人物の生活環境の出し方に於いて、観るものの気のつかないやうな方法で、そつと巧みにやつてのける、人物の身の周りにある、何んでもなささうな一備品を描いてあることによつて実際には大きな効果を生んでゐるものである、さうした用意を絵の中に仕組むことに意識的であり、工夫を凝る作家に、洋画壇には藤田嗣治氏があり、日本画壇には伊東深水氏がある。藤田嗣治氏の作品の風俗画的な作品には人物を書くといふ以外にその周りのもの転がつてゐる籠とか、皿とか、或は人物の着物の模様とかに、その地方色や、風俗をはつきりと捉へたものを選んでゐる、さながらこれらの静物的なものを先に描き、その中に人物を後から加へさへすれば、絵ができあがつた上に、風俗画としての人物の生活環境を生々しく描きだしてゐる、伊東深水氏の場合は、洋画家藤田氏のやうに露骨な方法ではない。いかにも日本画家らしく、そつと気取られないやうに工夫してゐる、女の敷いた座布団の厚味で人物の生活や秋といふ季節を語らしたり、昭和九年の作に「細雨」といふのがある、女が二階の手すりに腰をかけてゐる図である、細雨と名づけられるほどのものであれば、眼にも見えないほどの細微なものであるべきで、言葉を変へて言へば、描きやうのないほど細かいものだ、少くとも線と称されるものでは細雨は描くことができない、細雨とか糠雨とかいはれるものは、線よりも点にちかい表現を求めることが至当であり、もし線をもつて表現しようとする場合は、その線の長短に拘はらず、極度に細い線を必要とされる、その極めて細い線といふのはその極度に細いが故に、点に接近する、細い線を観て、その線が部分的に切断されてゐるやうに見えて始めて、細かな雨を描くといふ目的に達することができる。いま伊東深水氏の「細雨」の表現をみれば勿論さうした表現の、用意に欠けてゐることはないが、もう一つの用意をそこに発見する、それは線や点で雨を描いただけで果されない
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