、怪訝さうに、警察の門柱にビラを張つてゐる少年の手元と顔とを見較べてゐるのであつた。
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犬はなぜ尻尾を振るか


 東洋電機製作株式会社の社長蛭吉三郎氏は信念の人であつた、たいへん直感的人物で物事の要領を捕へるといふ点では、社員も頭を下げぬわけにはいかなかつた、例へば社長は事務机の前に三人の社員を呼んで、それぞれ事務上のことを、三人同時に報告させ、自分は眼を細くしながら、そはそはと聞いてゐるとも、聞いてゐないとも判らない焦躁状態で、机の上の書類を両手でがさがさと掻きまはした、それでゐて三人の事務員の報告を一度にちやんと聞いてゐるといふ才能があつた。
『××君、××会社へやる品物の見積りはあれぢや、いかんぢやないか――』
 さう叱つておいて次の社員に向つて、
『さうか、よろしい、ぢや君すぐ電話をかけて先方を呼び出して――』
 三番目の社員には、『困るね、君もうすこし研究してそれから報告をするやうにしてくれ給へ――』といふ調子であつた。
 人の話に依れば蛭氏の私宅には、電話が便所の中にまであるさうだ、彼は左手で受話器をはづし耳にもつて行き、右手を別な方面に動かしながら、ふと厠の中で思ひ出した用件に就いて、間髪をいれずに相手を臭いところに呼び出すといふ活動的なエネルギー主義者であつた。
 ある夜、蛭氏は少量の酒で、したたか酔つた、顔をつめたい風にさらし、珍らしく悠長な気持で自宅へ帰りつつあつた、そのとき蛭氏は自分が歩いて行く数歩先に、一匹の母犬らしい腹の皮のたるんだ、骨組みの大きな犬が、どこかへ向つて忙がしさうに行くのを発見した。
『おい、どこへ行く、忙がしさうに――』
 と蛭氏は犬に呼びかけた、しかし犬は答へない、犬の黙答に対して、蛭氏は敏感にそして直感的に、
『鼻の向いた方に幸福があるにちがひないぢやないか――』
 と犬が自分に答へたことを感じた、蛭氏はこの種の反抗的態度を好まなかつたから、非常に憤慨した、握りに金の飾りのあるステッキの先でトンと地べたを突いて犬に向つて叫んだ。
『君、はつきりと言ひ給へ、むぐむぐ口の中で言つてもわからんぢやないか、報告といふものは、もつと明瞭に、事務的に言はんと困るぢやないか――』
 そのとき犬はハッと立ち止つた、犬は体をゆすぶり、尻尾を大きく激しくふつた、犬が人間に対する追従の度合をはかるバロメーターであるかのやうに、尻尾は車輪のやうに蛭氏の前で、大きくまた小さく廻転した。
『よろしい、帰つてよろしい、また明日《あす》――』と蛭氏は手短かに犬に向つて言つたが、その時、蛭氏は非常に内心感動したのだ、彼は洋服のポケットから慌てゝ手帳をとりだし、暗がりの中で乱暴に鉛筆を走らして、手帳にかう書きつけた。
『犬はなぜ尻尾をふるか? 疑問解決す、明朝より全社員尻尾をつけて出社の事――』
 弾性のある針金を芯にして、これに真綿をぐるぐるまき、天鵞絨《ビロウド》の袋をかぶせてできた、男社員は黒、婦人社員は赤、の尻尾は配られた、これを男社員は洋服のズボンにつける、丁度肉体では、原始時代人間が猿であつたといふ痕跡がかすかに残つてゐるあたり、尾※[#「低」の「にんべん」に代えて「骨」、第3水準1−94−21]骨の箇所に尻尾を装置させて出社させたが、家を出るとき男社員は、さすがに尻尾をふつて街を通ることに人間的恥辱をかんじた、そこで尻尾の先端に糸をつけて、上着の下でそれを首のあたりに吊つて、街で尻尾が現れる事を極度に怖れて出勤しなければならなかつた。
 女社員は尻尾をスカートの上に装置するのだが、女達もスカートを二枚重ねてはいてくることで、尻尾は二枚のスカートの間に隠すことを考へだした、混みあふ電車の中で、つい糸が切れて上着の中から尻尾が飛び出す危険があつたが、さうしたラッシュ・アワーの場合には男社員も婦人社員も、尻を両手又は片手で押へて電車に乗り込むといふ気苦労が伴《ともな》つた。
 蛭社長は社員と話しながら、じつと社員の尻尾を観察することを忘れなかつた、尻尾がなかつたとき社員の感情の動きのわからなかつた欠陥は除去され、尻尾をつけたことで社員の感情の伝達がすぐ尻尾に現れたため、社長は社員達がそれぞれ個性的なふり方で尻尾をふるのを眺め大いに満悦した、大ふり、小ふり、さまざまな尻尾の振り方に依つて、社員の勤怠や、成績に関するメモをとることもできた、社員達にとつて然しさまざまなうるさい出来事が起き出した。
『あいつ、××課長奴、社長の前であの尻尾のふり方をみたまへ、振るわ、振るわ、大車輪ぢやないか、あんなに振らんでもネ』
『出納部の××君を見給へ、社長の前のあの醜態をさ、おや感極まつて尻尾を股の間に捲きこんでしまつたよ――』
 といふ噂をしあふのであつた。
 蛭社長は尻尾の
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