づくしの海苔巻《のりまき》の握り飯を、頬ばらうとすると、どうしたはずみか握り飯を手から落した。握り飯は、ころころと転げた、ころころころ/\ところげた、山のてつぺんからふもとをさして、いつさんに、ころころころころころころ/\ころころ』
『ころころころころ、ころころころ』
 さあその『ころころ、』の長いことがたいへんです、こほろぎは、それは美しい調子をつけて、いつまでも/\、『ころころ』と鳴きだした。
『おい/\こほろぎ奴《め》、まだその握飯がころげてゐるのかい』
『まだまだだ、握飯はいまやつと、丘を越えたばかりだ、お爺さんは、一生懸命その後を追ひかけてゐる、握飯はころころころころころころころころ』
 その日は、夜《よ》をとほして、こほろぎは、ころころと話し続けました。その翌日《あくるひ》も、その翌日も、いつになつたらその話を止《や》めるか、わかりませんでした。
 野牛は、とうとう腹をたててしまひました、こほろぎを、その角で、ただ一突きに突き殺してやらうと思ひましたが、樹の切り口の奧のところに、こほろぎがゐましたので、それもできませんでした。野牛はますます腹をたててこんどは、切り口に、長い舌をぺろりといれて、こほろぎを捕《つかま》へようといたしました。
 そのとき、傍にゐました、樵夫の子供は『占《しめ》た』と、切り口にさしいれてあつた楔を手早く抜きましたので、野牛は切口に舌をはさまれてしまつたのです。
 森のみんなは手を拍つて笑ひました。
 野牛のとがつた角は後《うしろ》の方にまがり爪がふたつに割れるほど、あばれてみましたが、舌はぬけませんでした、はては大きな声で泣きながら、
『モーモー、おしやべりをしませんから。モーモー悪いことをしませんから』
 とあやまりましたので、樵夫の子は野牛の口のなかから、おしやべりの珠をぬきとつて、とほくの草原になげてしまつてから野牛をゆるしてやりました。
 野牛は、泣く泣く森を逃げだしました。
 あの真珠のやうな、小さな言葉の珠を失くしてしまつてから、牛はもう言葉を忘れてしまひました。
『たしかこの辺だつたと思つたがなあ』
 牛は野原の草の間を、失くした珠を探して、さまよひました。
『モーモー、おしやべりをいたしません、モーモー』
 牛はそれから、こんきよく野原の青草を口にいれて、ていねいに噛みながら、失くした珠を探しました。(大15・2
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