来ないと、心にあきらめてしまひました。今は小男に連れてゆかれるより仕方があるまいと思ひなほして、そこで妻と別れの言葉をかはしました。
妻はふと思ひついたやうに、奥の部屋に入つて行き、自分の家の宝物にしてゐた立派な短剣を手にして出て来ました、夫にそれを手渡しながら『これは私の記念としておもちになつて下さい――』と言ひました。
そして妻の眼は『もしをりがあつたら、この短剣で、たゞ一突に小男を突殺して、帰つて来て下さい』と、言葉には出さず、心の中をかたる眼つきをしながら、妻は刀を夫に渡しました、酋長はうなづきながら、怪しい小男と連れだつて戸外に出ました。
どれほど相手が強くて悪魔のやうでも、永い間には油断といふものがあるから夫が小男を刺し殺して、無事な姿で村にかへつてくることが出来るかもしれない――と妻ははかない望みをいだきながら、夫の酋長を送り出しましたが、もし一生逢へなかつたら――と思ふと悲しみが一度にこみあげてきました。
それにしても、夫をうばひ取つて、肩をいからし、戸口を出て行くこの小男のなんといふ憎らしさだらう、その何物もをそれぬ大胆不敵の小男の後姿を見ると、たまらなく小男が憎らしくなつて、その場にわつと泣きくづれました。
それから涙にぬれた顔をあげ、夫の酋長を連れて行く小男の後姿にむかつて、べつと唾をはきかけ、それから口から出まかせに『腐れイタダニ奴――』とのゝしりました。
これはアイヌの仲間が相手を悪く云ふときに『腐れ――』と云ふのです、『尻の腐つた奴――』などと云ふのは、一番の悪口です、酋長の妻も小男があまり憎らしかつたので思はずかういひました。
するとどうしたことでせうか、小男は丁度電気にでもうたれたやうに、『あつ――』と小さな叫び声をあげて、もんどりうつてひつくり返りました、それからその場を転げまはつて苦しみはじめました。
あつけにとられてゐる酋長夫婦と村人達の前に、小男は死んでしまひました、そして不思議なことには、足の先からだん/\と氷があたゝめられたやうに、身体がとけ始めました。身体が全部とけてしまつて、地面の上に残つたものは『腐つたイタダニ』でした。イタダニといふのはアイヌ達がお台所で使ふマナイタのことです。
その夜、酋長は寝床に入る前に、神様にむかつて、この謎のやうな出来事のわけをきかせて下さい――とお祈りをしてから、眠りまし
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