小熊秀雄全集−8
詩集(7)恋愛詩篇
小熊秀雄

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●目次
最初の微笑と最初の手
谷の上
美しい血を何処に流さう
愛と閑暇
愛の一刀両断
女の強さを愛してゐる
愛は潜水艇のやうに
秋の詩
労働の中の愛
愛の出稼人
あなたの寂寥に答へて
林の中で
夕星の歌
両性の上の貪慾者
愛に休息があるか ――或る女へ――
ゴシップに就いて


最初の微笑と最初の手

知つてゐるかどうか、
あなたの最初の微笑が
どんなに私の心を撃つたかといふことを、
わたしとあなたの初対面の日、
あなたが瞬間の微笑を、
明るい眼で私に贈つてくれたこと、
それがあなたにとつて
どのやうに意味がない眼であつたとしても、
私にとつては衝撃であつた、
私は千年も前から
あなたを知つてゐるやうな
親しい気持になつて
いつでもあなたの心や体へ
触れる心易さを
ひとりぎめに決めてしまつた、
私の独断であつたらうか、
それはどうでもいゝ、
いまかうして貴女のために
詩を書いてゐる瞬間の時間は
私にとつて何者にも犯されない
幸福な時間であるし
私の運命の翼を
あなたが押へてゐるといふことは
間違のないことだから、
貧しさで掩はれてゐる地上を
とびたつことが出来ないで
羽ばたいてゐる虫のやうなものだ、
もしあなたが私の翼を
苦しみをもつて押へつけずに
愛をもつて開放し、
愛をもつて答へ、
軽々と飛びたつものにしてくれたなら、
私はどんなに嬉しいだらう、
私はどんなに勇気がでるだらう、
たたかひのために大空に
あなたも私も列んで飛び立つ
荒鷲の愛をのぞんでゐる、
なんのこばむこともなく
素直に私に与へてくれたあなたの手よ、
それは拒まれるよりも
どんなに強烈に私に自制を与へたらう、
最初の微笑が永遠であるやうに
最初に私に与へてくれた
あなたの手はまた私を感動させた、
感謝させた、
永遠にその温みは私の記憶から去らない、


谷の上

ふたりはあてもなく歩るいた
都会の雑踏を
本能的に避けて、
ふたりは谷の上に出た、
そして接近して坐つた、
谷の中をみをろした、
木立ちは重なり合つて
谷の中は暗くてみえなかつた、
ひろく明るく無限に
ただ空だけはふたりの背後にまで展がつてゐる、
自然よ、
お前は私たちふたりが
愛を新しいものにするか、
腐つたものにするか
いま賭けようとしてゐるのをじつとみてゐる、
たつたふたりきりの谷の上で、
そして強い意志の人は崩れた、
私はバネのやうに
その人を押さへた、
極端な冷静さの中に
女は、愛に貪慾な唇は
山脈を叩いて
とほく去つてゆく
部厚い雲のやうに
微妙なはためきを
私の唇に与へた、
そのとき、そして二人は
完全な秘密をもつた、
新しい愛の事業は始まる
カナカナが
熱い雨が降るやうに
ふたりの足のあたりの樹で鳴りだした、


美しい血を何処に流さう

私は馬や、豚よりも
純潔な血をもつてゐる、
自殺するならどこが良いだらう
血を、何処を選んで流さうか、
神聖な場所といつたらどこだ
周囲をみまはして
発見《みつ》けようとした、
銀の小石を敷いた広場など
最も格好な場所だ、
放らつな心と肉体を
横たへて
金色の虻がとんできて
私の鼻の頭にとまる
わたしは決して起きあがらないだらう、
わたしの民衆の死体は
たくさん虻の足にけだされる
誰でも一度は死ぬことを真実に
考へてみたことがあるだらう、
私もそのことを考へる、
生きるか死ぬかといふふたつのことより
知つてゐない私にとつて
死ぬ、死ぬといつて
芽出たく天寿を全ふしたら
おかしなものだ、
葬式馬車は列んでゐる、
こいつらの期待に答へてやらねばなるまい、
腐つた思想をどこまでも持ちまはるのか、
若者たちは徒に憂鬱性《ひぽこんでりい》になる
老いた思想が若い思想の
ながれの堰《せき》となつてゐる
古い思想よ、早く死たばつてしまへ、
水をのみおめおめと飯をくらひ、
三色菫《ぱんじい》の花をながめる、
林檎の袋にもならない、
粗雑な紙に粗雑な詩をかく
おめおめと生きてゐるのは苦しい許りです、
だが、友よ心配し給ふな、
女よ、愛人よ、
気を安んぜよ、
私は思想と共に
体を永らへさせねばならないから
私は死ぬ死ぬと
いふことを楽しみにしてゐる
私はこの詩を書いて
明日天井から私がぶら下つてゐても
不自然でないやうに
平素から心がけてゐる
事実私の死ぬ自由を
だれが停める力があるだらうか、
友達も、愛する女たちも
停めることが不可能だ、
だが何処かで『死ぬな』と言つてくれてゐる、
私の心のなかの階級の母が、
私の心のなかの子供にささやいてゐる、


愛と閑暇

心臓の苦しむのに
高鳴るのに
まかせてくれよ
恋と戦ひとを一緒に企てる
わたしの強情さを
君よ、笑つてくれたまい、
ゴシップも飛ばし給へ、
世のゴシップをいつかは
愛の発電機が
だまらせるだらう、
わたしは愛するものの
庇護のもとにある幸福に酔ふ、
庇護の下から
たたかひに出てゆく、
どんなに勇気がでるだらう、
恋には暇と時間がいるとは
君がプロレタリアートの
恋愛を軽蔑してゐる一つの理由だ、
女を愛する時間にさへ節約的な
君が階級闘争に熱心であることは偉い、
いつそ飯を喰ふことも
やめてしまつたらどうか、
階級を、父を母を、
兄妹を、妻子を、同志を、
一切は愛と真理のための闘ひだ、
肉親の愛をつよく肯定したまへ、
さらに百尺竿頭一歩をすゝめ
たまには赤の他人を愛する練習もしてみたまへ、
君の心臓は美しいものの心臓と触れるのだ、


愛の一刀両断

プロレタリアの恋愛は
どういふ恰好でするものだらう、
ブルジョアたちの恋愛と
どんなに様子が違はなければならないものだらう、
プロレタリアの若い連中は
熱心にそれを知りたがつてゐる、
わたしは思ふのです、
金盞花の蜜を吸ふ蝶のやうに、
やつぱり花の上で酔ふものさ、
友よ、君が妙に愛することに
臆病になり、遠慮勝なのはお可笑しくおもふ、
わたしは考へる
階級の熱情は単一に燃えよう、
愛は天ビン棒とは違ふから
一方が上れば一方が下るとはかぎらない、
女の重味で闘志が跳ねあがるとは思はない、
愛とたたかひと両方抱へて馬でとぶさ、
キングコングのやうに敵に刃向かふ、
国粋主義者より
ずつと我々コンミニストはスマートで
モダンで科学的でなければならないのに、
そして愛ははるかに彼等より
時代的である筈なのに、
どうして野暮な連中が多いのだらう、
わたしは世界中の女に惚れたいと思ふ、
すべての申込を拒否しないね、
闘つたり、愛したり素晴しいぢやないか
恋か、それとも部所か、
そのことで同志は悩んだ経験があらう、
いよいよとなれば愛の問題は
泥鰌屋が泥鰌を裂くやうな意志をもつて
一刀両断だ、
ステンカラージンのやうに
龍神へ女をささげて闘ひゆく
友よ、御安心下さい
恋愛の一つや二つしても
もつて生れたイデオロギーは腐りませんから、


女の強さを愛してゐる

激しくたたかつた女は
今頃はどうしてゐるだらう、
憎み、愛し、たがひに生活の混乱を
のがれようとしながら
心に焼ゴテを押しつけあひ、
あなたは男のやうに強く
わたしは女のやうに優しく
たがひに愛をたたかつた、
そして高い情熱の分岐点で
ふたりは別れた
わたしも傷つき
あなたも傷ついた、
ふたりの知つたものは
真実とはいかに
はげしいものであるかといふだけであつた
たたかひが心に哀しい、嬉しい永久に消えさらない文字を彫りつけ
あゝ、あの時の時間は流れ去つた、
すべては追憶となつた、
ただ愛の想ひ出は日に増し
濃く、甘く、熱く、心の中に
現実化されてゆくことは辛い、
かりそめの寝床の上の愛ではなかつた、
あなたといふ過去の女が
引きずつてきた長い帯を
わたしが新しい足で
踏んで踏みそこねて転んだのだ、
女よ、お前の愛はふかく
私の情熱はあそこの底を究《きは》めた、
お前の愛は暗く反時代的であつた
私の顔をさんざん
あなたは爪で掻いた
わたしは血にまみれた
しかし私は憎んでゐない、
去つて行つたあなたの強さを愛してゐる。


愛は潜水艇のやうに

かわいらしい鳩のやうな眼に
だれが注射をしたのだらう、
まるで充血をして
苦しさうに
あなたは私をじつと見る、
わたしも沼のやうに
眼は青く沈みがちです、
いらいらとした人々の
行き交ふ都会
そこをあなたと私の
かうした二種類の
眼をもつた人間が歩るいてゐます、
特別な眼です、
人々はわれわれを
幸福な奴だといふのです、
苦しさと酔ひとに
異様な混濁をもつた眼をして
二人は人々の生活の中を
悠々と横断します、
恋の眼よ、
お前は何をみてゐるのか、
だがふたりの眼は
何事も答へない、
人々の侮蔑も批判も、
悪態も嫉視も、
まもなくこの眼が
おだやかにじつとみをろして
しづめてしまふでせう、
まもなくこの二人の眼は
それは湖水にかげつてゐた陽が
いつぺんに明るくなるやうに
怖ろしい速度で澄んで行つた、
四つの眼は
人々の生活の中で輝やいた、
海の上の展望鏡《へリオスコープ》のやうに
人々の生活を波の上から見廻し、
洞察し始めた、
愛は水圧を堪へる潜水艇のやうに
愛はすべてのくるしみの
重圧をも堪へだした
二人の愛は潜水艇のやうに
苦しみをもぐつてゐる
呼吸が長い、


秋の詩

秋の悲しみを知らない
あなたの幸福な一日よ、
そして貴女のいひぐさでは
――わたしは詩人でないからと、
そして永遠にあなたが秋の悲しみを
知らないやうに
私は希はうと思ふ、
ほんとうにそれは珍らしいことにちがひない、
すべての人々は秋は悲しいといふのに
あなたはそれを楽しいといふことは、

でもそれは真個《ほんと》うのことだ、
凋落するものは木の葉であつて
あなたとわたしの心ではなかつた筈だから

勇気を出して
あなたはこの楽しい秋の間に
『家事の改革』をおやりなさい
秋の葉は散る
ふと眼を木の幹にをとしてみると
木はどんなに冬の襲来に備へて
いさましく武装してゐることか、
どうぞあなたは私へのかはりに
木の幹にはげしく接吻して下さい、
自然の木と人間の生活の甘さにがさと
なんとよく似通つたものがあるかに
驚ろいて下さい、
すべての人々にとつても秋から悲しみを
拭ひさらねばならない
最初にそれをした貴女のために
恋にもあれ、労働にもあれ
とにかく秋と幸福との抱擁とを
最初にそれをした貴女に
この詩を贈る、


労働の中の愛

農村では、
生活の歌や田園での
麦の把の忙がしい投げあひのさなかに
うつくしい健康な人は笑ふのです、
都会では、
工場の雑音の
たがひにいりくんだ
整然とした音のなかで
あのうつくしい健康な人は笑ふのです、
さあ、若い人たちよ、
ちよつとの間
待つてゐて下さい、
すべての生活の不便はとりのぞかれます、
たがひに愛しあふ時間を
労働時間八時間の中に、
働きつゝ愛しあふ日がくるでせう、
ふたりの生活の
くるしみの一致点に
なんてふたりの四つの眼の
ぶつかつたところに
一つの美しい月や
エメラルドや紅玉《ルビー》のやうな
星がきらめいてゐるのでせう、

ふたりの生活を
脅やかすものへの
楯つき方の一致したところに
なんて花や散歩道や
山岳はひらけてゐるのでせう、
若い人たちよ、
あなた達の生活の
苦しみの一致したところから
その苦しみの共働的な
追つ払ひのために
たたかふ仕事を始めたところから、
殆んど調和的に愛しあふ権利を
公然と主張したらいゝ、
そして樹と月と星と花と山とに
自然に触れるために
連れだつて行つたらいゝ、
時の青春よ、
それは逃げ去るものであるが、
あわてゝ追つてはいけないものよ、
自然な闘ひは
あなたにいつまでも
愛し合ふ力を与へ
青春を失はせないでせう。


愛の出稼人

われら愛の出稼人、
草鞋を履いて
田圃に行かうか、
靴を履いて
会社に行かうか、
教科書抱へて学校に
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