身振でかういつた
――おゝ、メランコリイよ
おれのロシヤよ、憂鬱な存在だ、
お前の何処の隅に行つても
牛の尻に糞がくつついてゐるやうに
憂愁《トスカ》がくつついてゐるのだ
そこで彼はぶつぶつ呟やいた
解放された農民が
燕麦のことばつかりで
頭の中をいつぱいにしてゐるといふことがあるか、
立て、立て――と焦々と
インテリゲンチャ達は悲しげに喚きたてた、
当時のロシヤでは世の有様は
絶えいるやうな絶望が
地上の空気の一切を色濃くとぢこめてゐた、
ナロードニキ達はヒステリイ化した
彼等の理論家ミハイロフスキイの書く物は
理論のくせにお伽話よりも面白かつた
読者をゲラゲラ笑はせながら
啓蒙的であつたのだ、
ところで曾つての日本のナロードニキ達の
評諭はどうであつたか、
現在残存するところのナロードニキ達はどうか、
ユーモアなものを股の間に
ぶら下げてゐる人間とは思へないほど
ユーモアといふものを解しない奴ばつかりだつた
木の皮だつて、この連中の書く
理論や小説よりも気の利いた味がする
啓蒙とは――つまり笑はせることだといふことを知らない、
真理を嗅ぎ出すトガリ鼻が
たくさん集まつて始めて
この国も文化的な国の資格がある
殿様、若様、坊ちやま、男妾に類した
ノッペリとした面付をした文学
もちまはつた肌ざはりの悪い散文精神、
その種の文学が幅を利かす、
そして我国には諷刺文学が生れる必然性がない――
などと合理化したり逃げを張つたり、
アゴのしやくれた文学、トガリ鼻の文学の
若い芽を摘むことばかり、強いヤキモチが、
それは文学上のヤキモチでなく
杜会的立場からのヤキモチを焼く、
芥川龍之介はさすがに偉らかつた、
彼は杜会的な風邪をひいて
鼻水をだらだら垂らしながら死んでいつたが、
目本の文学の残された仕事に就いて
遺言をのこして死んでいつたが
曰く『鼻の先だけで暮れのこる――』と、
×
『僕は学生なんです――』
とその時、学生は改まつた口調でしやべり出した、
そこで私は彼を押しとどめた
『まあ、さう学生を強調し給ふな』
教科書の頁を飛ばして読まうが、
飛ばして読むまいが
卒業後の就職には一苦労することは同じだ、
出来ることなら学生らしく頁を飛ばさないで、
また、在学中に、作家廻りなどの
悪い癖をつけないがいゝ、
『僕は就職はあきらめたんです
諷刺文学をやらうと思ふのです
よろしく御指導下さい――』
『それはよからう、ゴーゴリの小説に
出て来るやうな人物が
われわれの国には少なくない
人物はゐる、しかし作品が出てこないのだ
君もまた人物としては、諷刺的存在だ、
しかし君は自分の個性を圧倒するやうな
真理の上手な語り手になれるかね、
もし成りそこねたら、
他人が君をカルカチュアのしつ放しで
君は滑稽な人物として一生を終ることになる、
だから諷刺作家になるなら
諷刺負けをしないやうに
大いに諷刺で他人に攻勢に出るんだね、
それがなかなか難しいんだよ、
学生よ、
まあカユイところに手が届かないといつて
さういらいらするな
背中を出し給へ、僕が掻いてやらう、
もし僕が君の背中を掻いてやつて
それで君の気が楽になるのなら
諷刺作家志望などを取り下げて
工場の倉庫番にでも就職し給へ、
ほんとうに君が素裸になつて
自分で自分の背中を掻く力がでたら
また改めて僕の処に訪ねて来給へ、
馬だつて横木に背中をこすりつけて
ごりごりと掻く智慧をもつてゐるよ、
どうせ我々の背中は
千年待つても誰も掻いてくれる筈がないさ、
君はどうも背中が掻くなつて
僕の処にやつてきたらしい
学生よ、ちよつと顔をあげて見せ給へ、
立派な人相だ、
シャクレた頤、諷刺家の骨格を充分備へてゐる、
手の指の動作も、
何物かを掴まなければやまないといつた
美しい痙攣をしてゐる
鼻の利く奴、遠眼の利く奴、
速歩、跳躍的な奴、
お前、諷刺家を望む青年の
骨格上の惨忍性に光栄あれ――、
×
ネバ河の葦の生へた辺りを
うろうろしてゐた一人の男がゐた
彼はそこに立つてぶるぶるつと身ぶるひし
古モーニングを着た狼の恰好で
汚れた毛のぬけた外套の襟を掻き合せたものだ
奴は狼の良い習性を
全く身につけたやうな精桿な男であつた
ステッキをコツコツとついて黙想しながら
ロシヤの将来について考へながら
河岸を歩るいてゐる間に
ステッキの音によつて地の中に
ガラン洞な一個所のあることを発見した
――おや、これは美しい俺の運命がひらかれる時が来た
こいつの穴に生命を投げこむのは
俺の習性にピッタリしてゐるぞ――、
彼はそこで河岸の一枚の石をはねのけた
そこには何処かに通ずる
暗い横穴があつた
彼は石の上蓋をのけてその穴の入口から
地面の中に潜りこんでしまつた
×
ロシヤの霧隠才蔵はその時
ネバ河から通ずる
不思議な奥穴を這つてゐた
全く偶然的に――そして予め設計師に
設計させたもののやうに
おあつらひ向きにクレムリン城廓に通じてゐた
間道は次第に細くなり
四つん這の行進が終つたとき
こゝで人間的にウーンと
背伸びをして立ちあがつた
こゝで人間的な意志の強さを
発揮する番になつた
壁は五寸程のすき間よりない
左右の足の関節を巧みに動かして
クレムリン宮の外廊をまはりだすと
なんと運命は小癪な
喜びをもたらすものだらう、
ひよつこりと会議室の地下に出た、
そつと階段をあがつて
会議室の中をのぞくと
そこの大テーブルの上には
白い花に紅をさしたやうに
小さな簇生的な花は花瓶にさゝれ、
その花の名はわからない、
温室そだちの季節外れの花に違ひない
その花は円卓の上に
お尻をもたげたやうに盛花され
周囲の窓には
垂れ下つたグリーン色の
地厚のカーテンは重さうであつた、
そのとき会議室の一隅のドアは排され
大臣達は一人づゝそのドアの中から
現はれて座についた
そこでロシアの忍術使ひは
そつと階段を下りて地下室にもぐりこむ
そして彼は胸を叩く、踊れ心臓と、
脳のシワもアコオジョンの
蛇腹のやうに揺り動かし眼を輝やかす
私はつぶやいて――さあ、いそがしいぞ、と
水洟もすすらなければならないし
額にさがる髪も掻きあげねばならぬ、
自分の胸から、丸い鉄の心臓をとりだして
それを地下の適当な場所に据ゑねばならないし、
聴耳をたてたり、小唄をくちづさんだり、
ロシアの百姓達のことも考へたり、
嬉し涙をながしたり
なにもかにも一緒にやらねばならない、
おや、おや、頭上には
ロシアの現状についての
深刻ぶつた会議。
×
その真下では今にも彼の丸い心臓が
笑ひだしさうに
それから長い導線を引きだした
煙草嫌ひの心臓さん、
いまにマッチで一服
お前さんに吸はしてあげるよ、
充分煙でむせんだら
パッと火を吐きだしたらいゝ、
可愛い心臓よ、
お前をこゝにのこして
私はそろそろ後退するよ、
だが心配し給ふな
お前と私とは導線でつながつてゐるから
そこで急設の電話で連絡を致しませう、
かういひながら彼は自分の鉄の心臓を
会議室の真下にをいてから
そろりそろりと後退した。
×
僕の処に訪ねてきて[#「て」に「ママ」の注記]学生君よ、
この辺りで話を打切らうか――、
それともくすぐつたい許りで
笑はせてしまはないのが罪だといふなら
それからどうなつたかを話を続けよう、
どうせ僕は君の訪問のために
時間をあけてをいたのだから、
君も諷刺作家として
三つの呪文を唱へる仲間に入らうとしてゐるのだから、
第一に――、批判精神、
第二に――、諷刺性、
第三に――、物質的表現、
この三つの呪文が風の間を
飛びまはるやうにならなくては
日本の平民の生活が楽しくならない、
×
三つの呪文を忘れぬやうに
未来の諷刺作家よ、
クレムリンの住人共が、
万一の場合逃げ路のために
造つてをいた横穴を
逆にネバ河から入りこむ
型変りの戦術家が
殖えるほど人生は明朗だ、
僕はこないだセルロイド工場の火事を見たが、
ポンポンと夜空に打ちあがる
爆発的な笑ひは美しかつた
学生君よ、君の心臓も、あいつの心臓のやうに、
とほくに仕掛けてをいて
導線で密語を交すのだね、
連絡が切れたときは
君の心臓は
火の絨氈をかぶつて
天井まで飛びあがるだらう、
大臣たちはチ切れ飛んだ、
自分の手や足を
探しまはつてゐたさうだ。
×
さあ、三つの呪文を唱へて
学生君よ、
日本の霧隠才蔵である僕の弟子入りをし給へ、
まだ話の残りが気になるのかね、
もつともだ、
丁度、その時、美しく着飾つた
金の冠をかぶつた雄鶏は雌鶏を従へて、
会議の席にのぞんだが、
扉の処で驚ろいて蹴つまづいて
会議室の中へではなく
外へ転げたため、
火の絨氈はかぶらずに救かつた、
その頃、ネバ河の葦の中の
小鳥がチヱ[#「ヱ」は小文字]ッと鳴いた。
底本:「新版・小熊秀雄全集第1巻」創樹社
1990(平成2)年11月15日第1刷
入力:八巻美恵
校正:浜野智
1999年6月18日公開
1999年8月28日修正
青空文庫作成ファイル:
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