兵士はよろめいてゆく、
煙は去つて一抹もない、
後にのこつたものは灰だけだ、
爺は灰を掻いて裏庭にある
大きなゴミ箱の中へ灰をザアとあけて
パタンと蓋をしめて去る、
灰はまつ白い人間となつて
ゴミ箱から躍りだし
――なんといふひどい事をしやがるんだ
とぶつぶつ不平をいふ
いや、をそらく灰が人間になるなどといふことは順序ではない、
人間が灰だらけになつて
ゴミ箱の中から現れただけの話だ、
彼は灰だらけの顔で周囲をみ廻し
底光りの眼をぎよろつかせ
男はげらげらと何時迄も時間を無視して、
停めどなく笑ひ出す、
残飯用のヅダ袋へこの灰を
せつせと詰めこみ始めた、
ふらふらとした足つきで
夜の街を何処かへ向つて歩るきだした、
彼は札の灰を
提灯と小格子と、三味線との色街へ
着流しの旦那さん達の待合の勝手口へ――、
ゴミ箱の中のルンペン大将は現れた、
彼はのつそりと無遠慮に
灰の入つた首にかけた袋を突出す、
美しい女が五十銭玉を彼に渡すと
彼は灰をひとつまみ女に包んで渡す
彼は次ぎから次ぎへと
家なみに灰を売りあるき
灰を売つてしまつたころは
新しい伴天を着て
新しいガマ口をもつてゐた、
待合の女は灰と塩とをまぜあはしたものを、
玄関の敷石の上に三角形に積みあげて、
神棚から火うち石をもつてきて、
――カチン、カチン
  今日こそ、妾の旦ツク現れよ
と許りに火うち石を情熱をもつてうつ、
線香花火のやうな火を出しながら
札を焼いた縁起灰の
千客万来に信頼し
敬虔な態度で祈り
彼女は招き猫のやうな奇怪な手つきをする、
灰を売つた男は間もなく
新しい伴天をどこかにやつてしまふ、
もとの木阿弥となつて
材料を仕入れに再び銀行の
ゴミ箱の中にやつてきたが、
ついに頭から灰は降つてこなかつた
重役はその頃おごそかに爺に言つた、
――灰は銀行の外に出してはいかん
  どうも近頃灰を売るものがあるんぢや、
一切は旦那さまのものであり、
紙幣を灰にしてさへも
彼等は乞食の所有になることを拒む。


シャリアピン

   1

わたしはシャリアピンさまに
永年仕へてゐる蚤
ともに韃靼の古都カザンに生れ
ともに暮して当年六十四歳、
夏はシャリアピンのカラーの下の涼しいところに
冬は暖い頭髪の中に
平素は主として鳩尾《みづおち》のあたりに住んでゐる、
早耳、早足は小生の特長
御主人シャリアピンが御承知なくとも
わたしはすべてを知つてゐる、
ソビヱットのこと、
旦那の若い頃からの友達ゴリキイ旦那の最近の便りも
せつせと走り廻つたり、聴き廻つたりして、
世の中のだんだん変つてゆくのを
知ることは私の楽しみだ。

   2

旦那の歌はもう聴きあきた、
汚らはしい金持の拍手と
無理をし算段をして入場料を払ひ
旦那の芸術を聴きにくる人々の
割れるやうな拍手が、ホールに響くのも毎度のことだ
だが大きな働いてゐる手の持主
労働者の拍手をついぞ聞いたこともない、
なにせ入場料が、二円、四円、六円ではね、

   3

かう見えても、わしは蚤の仲間のコンミニストなのだよ、
だから御主人シャリアピンの批判もできるのさ、
まあ笑はないで下さい。
  蚤のコンミニスト
  さらば、我が蚤に
  心ゆくまで
  悪態を言はしてみよ、
  蚤の悪態、ハハハハハ
  蚤―、ハハハハハ
  ハハハハハ、蚤のコンミニスト
いかがで御座る、
見やう聴き真似で御主人の
メフィストの蚤の歌に
そのまゝそつくりの巧みさがあるでせう。
日本でもこれを歌ひました
桟敷から誰かゞロシア語で吐[#「吐」に「ママ」の注記]鳴つた、
「メフィストの蚤の歌を謳つて下さい」
するとシャリアピンは舞台から
「いま、音楽会が始まつたばかり
 そんなにあわてなさいますな――」
と愛嬌を振りまいて又々拍手拍手であつた。

   4

御主人はちと認識不足だよ、
あわてなさいますなと言つたところで
日本人といふ国民性は
世界の中でも最も
あわてる人種だといふことを御存知ないのだ、
ヤポンスキイ(日本人)は感情的な人間が多いが、
深い感情ではない、
いつも「追ひつめられた決意」で動く国民だ、
そしておそろしく単純だ、
――ソビヱット即スターリン
――文学即ゴーリキイ
――プーシキン即オネーギン
――シャリアピン即蚤の歌さ、
物事を端し折つて
理解することにかけては天才さ、
「其他の条件」といふことを
無視する才能に恵まれてゐる。

   5

わしの旦那シャリアピンは
なるほど声楽王にちがひない
第一に声量の大きな点
だが声量に驚ろくこともない
驚ろくものは「井戸の蛙」だ
外国にはあの程度の声量は珍らしくない、
シャリアピン的声量は
日本のそこらにもザラに転がつてゐる、
閲兵式へ、練兵場へ行つてごらん、
戸山ケ原へ行つてごらん、
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