も退くことも
出来ない破目に陥つた
彼の兼々主張する女に対する『漠然たる不安』
そんなものはとつくにけし飛んでしまつた
これ以上明瞭な不安はない
――およしなさいよ。お帰へりなさい
彼女は美しい声で
邪剣な退去命令を大西に下した。
三十三
――はッ、失礼致しました
兵卒が上官に面責されたやうに
大西三津三はガバと彼女の寝床から離れ
オイチ、ニ、オイチ、ニ、の軍隊式の足取りで
四畳半に引きあげた
不思議な時間といふものもあるものだ
最大の幸福と最大の不幸との
継ぎ目といふものは
こんなに見分けがつかないものか
たしかに彼女が
『お寒いでせう、お入んなさい――』
といつたのに、そして従順であつたのに、
勇士が馬に乗つて
見事に障碍物をとんだと思つたのに
馬は見事にとんだが
乗手は鞍から離れて
いやといふほど痛い障碍物の上に
乗つかつてしまふとは
真夜中の乗馬遊びでよいやうなものの
白昼の観客注視の只中であつたら
帽子で顔を隠して
競馬場を逃げ出さなければならなかつたのだ
曾つて愚かにきこえた四畳半のわが友の寝息よ
いまは平安な男達の
賢明な寝息にきこえるばかり。
三十四
春の朝の明るい部屋の中へ
濶達な女王さまは起きてゐる
男達はのろのろと
陰気な動物のやうに四畳半から出てくる
みると彼女の傍には夜着などをきこんで
意外や草刈真太が
特別製の威厳と幸福とを顔中にみなぎらして
彼女に寄添ふやうに坐つてゐる
常態でない
一夜にして草刈真太は亭主然としてゐる
太陽の光りの屈折が位置を変へたのだ
なぜといつて草刈奴の顔へばかり、
なごやかな平和な淡虹色の
光りが集注してゐたから
草刈は輝やいた顔で彼女と喋々喃々する。
三十五
りん子は一同を見渡して
女には珍らしく威厳のある声で
――わたし達の共同生活は、といふ
――よろしく組織的でなければ、ならないわね、とつゞける
――古谷さん、貴方は掃除係り、
――尾山さんは炊事当番、
――大西さん、貴方は育児係りをして下さいな、
アナアキスト古谷典吉は情けない顔をして
――おれは、つまり便所掃除もするわけだな
――勿論、それから庭もね、玄関の前のドブ板のこはれたのも修理して下さい、
――よろしい
――大西さんは育児係りだから
サクラ子ちやんを連れて
一日中遊びあるいて頂戴、
大西は彼女の命令を快諾した
―
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