肩にかけゆく長廊下外面《とのも》は霧にこもりしづもる

おりしづむさ霧をかんじひたりゐて肌にさらめく湯のこゝちよき

提灯をもつは女か温泉《ゆ》の宿の闇の山坂ゆきかへるなり


北海旅歌

(1)十一年振りの旭川
はるばると来て清浄無垢を学びたり朝あけに見るヌタクカムシペの山

色あせてはためき寒し応召の屋根の上なる日の丸の旗

喫茶部《きつちやぶ》のツンとすました女故《ゆゑ》またコオヒイのうまき味かな(北海ホテル茶房にて)

久しぶりでホテルの酒房にでんぐりかへりあゝ道徳がなけらばと思ふ

いちめんのたんぽぽの野の美しさ触れてもみれば散りしぶりたる
(神楽《ら》岡《をか》)

旭川友あり姉あり酒もあり心弱ければ剣《けん》を恐るる

旭川雪よりいでてなを白き女の街よ去りがたきかな

(2)農村ところどころ

わつさむ[*「わつさむ」に傍点]の空の紺碧眼にしみて百姓と空と瞼を去らず

窓もない百姓小屋のおそろしき暗さの中に子供らが住む

つつましく店番をする女ありかどに大きく『出征兵士の家』

噛めばかたくなめれば甘き落花糖うのみにすればのどつまりする

水田の泥にうづまり動く人赤き帯故娘と知るも

昼よりも明るきほどの月夜なりおもひ消せども浮びくる顔

あふむきてふくゴールデンバットの煙りなり北海道の重き夜具かな


(3)美瑛村に泊る

山は雪、町は暑さのはげしさよ美《び》瑛の人はおだやかにして

硫黄山暁かけて段落《たんらく》にクリイム色の靄はかゝりぬ

朝あけのもやにうつなり大太鼓十勝の原は肌寒くして

師団山、兵ら斜面のトーチカにうてやうてうて気のすむまでに

とをくより就寝ラッパきこゆなり夜眼にもしるき白つつじの花

夜の更けの警備の兵の着剣を青くてらすはタングステンの月

はたとやむ蛙の声よ旅に来て美《び》瑛の街の中天の月

(4)塩狩駅にて

平原の百姓小屋の物乾しのこれが人間の着る着物かな

この冬は薪木とる山なしといふ北海道の百姓の暮らし

眼をもつて追へどはてなきこの原のどこに行つても鮮人がゐる

鮮人よ、日本のユダヤ、さすらひて口と土地とに生きつづくなり

親切をつくせる女しほかりで下車てしまへりそれきりのこと
(塩狩駅にて)

慾望の果てに疲れて旅すれば眼にうつりしはとき知らずの花

朝やけは朱と紫のだんだらに山を染め分け明けんとするも

(5)名寄町にて

幅広き名寄《よろ》の町に降りたちて煙草屋の娘に路をたづねる

屋根低き名寄の町に風荒れぬ呼吸ひそめつつ人ら住めるも

黒百合のはげしき色を眼にすゑて昔の女にくみはじめぬ

味気なや旅の心に鳴るものはかたくつめたきトンカツの皿

新しきことにおどろくゆたかさの眼をして咲くは三色菫

朝早く騎馬一頭は駈けすぎぬ緋色の夜具の乾されたる街

夜更けまで光散らして蹄鉄をうつ馬もあしたは徴発されん

(6)旅情雑詠

けんぶち[*「けんぶち」に傍点]の木材置場、木の木口これがみんな百姓の頭だ(剣淵所見)

雲立ちてらんる[*「らんる」に傍点]の駅の荒々しさ旅立ちゆくも薄情にあらず(蘭留駅にて)

小使が欠食児童の名を呼びて弁当をくばる村の学校

のみながらウドの酢の物まくらへば旅するものの心やすらふ

生きぬけばつよき風よりなほ強しうなだれて咲くおだまきの花

純情の同志を生みしこの街よ今野大力はいま世にあらず
(今野は旭川出身、旧『戦旗』編輯者)

ヱピリット、ホスゲンと特務曹長声高し汽車で語るは戦術の話

(完)旭川にて

旭川こゝに一人の女をみいだせり不安募りきて旅立ちいそぐ

愛すれば苦しき町とかはりけり空澄める町にすみかねるなり

去りゆけど思ひはいつもとどまらぬ石狩川の白き堤防

北海に愛歌をつくるめでたさを友よ責めるな真実なれば

ぱつちりと東京行のきつぷ切られけりやうやく帰る心となりぬ

石狩の少女の胸の白さかなとをくとどろく鉄橋の汽車

動揺をあたへて去れどゆるし給へときくれば咲く鬼げしの花


旅歌

鎌倉にて

横顔は多少美し大仏の背中に窓があいてゐるとは

さほどまで美男にあらず鎌倉の大仏さまは喰は(せ)ものなり

逗子にて

生きるにも死ぬにも不便なところなり逗子の汀は遠あさなれば

逗子の海波のくらさの折返しくだけ光るは夜光虫かな

手の上に消えるともせぬ夜光虫つめたくひかる虫の心かな

風荒れもいつかはやまるときあらんゆれてやすまぬ樹の心かな

小坪にて

小坪にて川島浪子と逢ひにけり汀で犬とたはむれてゐし

美瑛にて

ゆらゆらと千城橋の行きかへり風にふかれて吸ふ煙草かな
(煙草を吸へば味のよきかな)
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