俺は神様に感謝するといふことが、生れつき大嫌ひな人間だが、たつたひとつだけ、時折祈祷をしてやつて罰が当るまいと思はれることがある。
それは彼女が健康だといふことであつた。
皮膚は馬の皮のやうに、丈夫に出来てゐて、殴つても、蹴つても決して傷がつくといふことがなかつた。ところがこの詐欺師奴が、この健康をさへ、誤魔化さうとしたことがあつた。
俺は真個《ほんと》うは健康な女が嫌ひであつた。そのひとつの理由として健康な女に限つて色が黒いといふことも挙げることができる。
市街の一隅には、大日本赤十字病院といふ、海のやうに青い層をなした巨大な建物があつた。
夏になるとこの病院の中庭には青や黄や赤の松葉牡丹がそれは美しく咲いた。
そこにこそ俺の恋人にふさはしい、手の痩た女や、眼の大きい女達が数十人生活をしてゐた、硝子張の露台の中を恋人達は、水族館の魚のやうにひら/\静かに泳いでゐた。ばく/″\唇《くち》を動かした。
彼女達は、鶏卵《たまご》の黄味を吸はうとするかのやうに、太陽を吸はうと与へられた日課をしてゐた。
世間の人達は、彼女達を肺病患みと呼んで恐れてゐた。
健康な人々の中に許り閉ぢこもつてゐるといふことは危険なことだ、彼等はその健康をもつて、ぐん/″\不合理をも、押倒し、引倒し、藪原の材木を曳く壮健な馬のやうに、人生を突き進む、これに反して、可憐で繊細な病人達は、絶えず人生の姿に脅へた。
高い壁にゆきあたると彼等はじつとその前に坐つてゐて、何時までも待つてゐた。
扉のしぜんに開かれるまで、退屈な人々は何事かを考へてゐなければならなかつた。
(三)
俺の馬のやうな彼女も、俺の処に転がり込んで来た当時は、細い首をして、青く透いてみえる顔をしてゐた。
――体の何処かに、疾患を持つてゐる方は、豚や牛のやうに、健康な人たちとはちがつた鋭敏な感覚と、叡智とをもつてゐるものですね。
『俺は今考へると腹が立つ程当時彼女に丁寧にものをいつてゐたのであつた』
すると女はごほん/″\と咳をした。そして胸の辺をおさへ情趣に富んだ表情をした。
ところが彼女の病気は、美しくなるどころか、日増しに悪化し、次第に顔が狐のやうに尖り、皮膚の色沢もなくなり額のところの毛が脱けてきた。
或る日、飛んでもないことをいひ出した。
――貴方。妾《わたし》お寿司にサイダアをかけて喰べて見たいの。
それ以来彼女の舌は天才的になり、味覚は敏感となつた。
俺はフランスの美食家、プリヤサブアランのことをおもひだした。それは彼女もフランスの美食家に負《ひ》けをとらない、珍奇な喰べ物を探しだしたからであつた。
『鶉の油で、はうれん草を揚げたもの』や『極く新鮮なカキのあとに喰べるものは、串で焼いた腎臓と、トリュッフを附けたフォア、グラと、それからチーズとバタとを溶いた香料と桜酒で味をつけた』などゝ注文をいひだし兼ねなかつたが、幸彼女は飢ゑたやうにがつがつと歯を鳴らして、夏蜜柑に砂糖をかけたのを、一日に七ツも八ツも貪り喰ひ無性にうれしがつてゐた。
俺は幸にも手籠を提てパリーの公設市場まで、買ひだしに行かなくてもよくて済んだのであつた。
それから間もなく欺されてゐることを知つた。
肺病などゝいふ上品な、はいからな病気でもなんでもなかつた。彼女は妊娠をしてゐたのであつた。
精一杯な我儘を始めた。
殴りつけようとすると、女は素早く拳骨の下に、腹を突きだした、かうすると俺が殴れないことを、ちやんと知つてゐた。
当時俺たちは極度の貧乏をしてゐたのだが、彼女は不経済にも喰べた物を片つ端しから盛んに吐きだした、そして吐き気が二ヶ月もつゞいたのであつた。
――殴るなら殴つてご覧、吐くものがなんにも無いんだから、血を吐いて見せますから。
事実血を吐かうとおもへば、吐けるらしかつた。
女の感情は、毎日猫の瞳のやうに変つた。
女などゝいふものは理由なしによく泣くものではあるが、この数ヶ月間は殊に理由なしに泣つゞけた。
この妊娠の期間、俺は彼女に馬車馬のやうに虐使された。
胎児と彼女の臍とは、長い管のやうなものでつながつてゐて、高いところに、彼女が手を挙げるやうなことがあると、ばちんと音がして、臍の緒が切断され、腹の中の赤ん坊は死んでしまふと、彼女は脅かしたのであつた。
俺は仕かたなく棚から摺鉢や片口などの重いものを、をろしてやつたり、漬物石をとつてやつたりしなければならなかつた。
重い物は男たちが持つてやらなければならないなどといふ家憲のある家庭もあるさうだが、俺はそんなことはきらひだ、殊に幸なことには彼女は俺より大力であつたから。
しかし妊娠してから女は急に力が抜けてしまつたのだ。
(四)
腹の中の子供に、聖書を読んで
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