関にかけあがつた。
 ――お帰んなさい。
 遠くの方から、下宿の妻君の声が聞えた。
 ――水島がやつて来たかい。
 ――参りましたよ。例のとね。
 下宿の妻君は、意味ありげに笑ひながら、水島の恋人の、姿態をたくみに真似た道化た格好をし、仰山に手をひろげて、廊下に半身を現した。
 ――ちえつ。
 彼は舌打をした、何処かに隠れてゐた敵意に似たものが、ふつと舞あがつたのである。
 そして自分の部屋の前に立ち、その襖をあけようか、開けまいかと、長い間思案をした。
 部屋を思ひ切つてあけて見た、しかし何の異状もなかつた。
 室の中には、非常に寒い空気が充満してゐたきりで、彼が会社に出掛けた朝のまんまになつてゐた。
 机の上には、一日ぢゆうの埃が灰のやうに白くつもつてゐて、水島と彼女とが、きつと花弁のやうに寄りそつて坐つてゐたことであらう、あたりの位置にも何事も起つた様子がなかつた。しかし彼は焦々として室中を見廻し
 ――眼に見えない、いりみだれた指紋で、室中めちやめちやにしてしまつた。
 彼はかうぶつ/″\いつて部屋を出た、そして泥棒猫のやうに、がさ/″\下宿の戸棚を探してゐたがやがて一握りの塩
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