マリ佛教の經文が約翰傳の出來た時既に西に傳はり、耶蘇教の學者の思想の中に加はつて、是れが聖書と考へらるる樣になつたのであらうといふのである、尚又約翰傳十二章三十四節に、人々彼れに答へて曰けるは我等律法にてキリストは窮りなく存者なりと聞きしに云々とあり、この律法といふのが矢張り分らぬ、所が是れも佛典の中に出て居るといふのである、果してさうであるとすれば實に不思議な事で、佛教の經文が聖書として耶蘇教のバイブルの中にも顯はれて居るといふ事になる、全體印度の思想の歐羅巴に傳はつたのは餘程古い事であらうと思ふ、紀元前一千年今から三千年許りも前に、象牙や孔雀や猿猴や栴檀などといふものがオピルといふ港から輸出された、而して是等のものには皆サンスクリツトが用ひられて居る、して見ると印度と西洋との間に於ては既に其時分からして交通の道が開けて居つたのであらう、波斯のタリユース王は北方印度を領して居つたが、其の時王の命令に因つて希臘人のスキラツキスなるものが、紀元前五百年頃に印度へ旅行したといふ事がある、歴史家の祖先ともいはるるヘロドタスの印度に關する智識は全く是れから得たものである、だからして五百年頃には印度の情況も西方へ知れて居つた、夫れから後になりますと、ストラボといふ人が―是れは紀元後一世紀の人であるが―此人の書いたものに、百二十艘許りの船が紅海からして印度の港へ往復して居つたのを見たといふ事がある、さうすると一世紀頃には百二十艘許りの船が、舳艫相啣んで彼處此處に航海をして居つたものと思はれる、是れに由つて見れば印度の思想が極古代からだん/\西の方へ傳はつて來たのも、敢て怪しむべき事はない、尚申上げたい事は澤山ありますが、餘り長くなりますから今回はこれでお仕舞と致します(拍手)。
底本:「叡山講演集」大阪朝日新聞社
1907(明治40)年11月10日初版発行
初出:「叡山講演集」大阪朝日新聞社
1907(明治40)年11月10日初版発行
※底本では本文は「(上)」と「(下)」に分けられ、「(上)」の題名の下に「八月三日講演」、「(下)」の題名の下に「八月四日講演」の表記があります。
※題名の次行に「[#ここから割り注]京都文科大學教授[#改行]文學博士[#ここで割り注終わり] 松本文三郎君」と著者名が表記されています。
※変体仮名と仮名の合字は、通常の仮名に書き
前へ
次へ
全21ページ中20ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
松本 文三郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング