早春箋
辻村もと子
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【テキスト中に現れる記号について】
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まづまづ安着いたしましたこと、ご安心あそばして下さいませ。二日二晩も汽車や船にのりづめでは、臟腑がごちやごちやになつてしまふだらうにと、お母さまはおつしやつて不安さうになさいましたけれど、おもひのほかなんともないものでございます。もつとも初めての長旅なので夫も大変気づかつてくれまして、途中、前便のとほり松島を見物いたし、青森で船のでるのをまつあひだ三時間ほど停車場前の「かぎや」ともうす宿で休み、連絡船で六時間、割合にくたびれもせず、はじめて海を越えた土地につきました。
蝦夷松前などゝ、小田原のひとびとは囚人だけのくるところのやうにもうしてをりますが、どうして、北海道はなかなかひらけたところでございます。ことに函館なぞ、昨年日露戦争が終りましてからは、樺太との連絡にも重要な港となり、外国にでもまいつたやうに立派な西洋館がそろつてをりましてびつくりいたしました。
たゞ青森からはしけで連絡船に移りますときだけは、ほんとうに怖しく、どうなることかと気もそゞろ、しみじみ来なければよかつたとさへおもひました。そのはしけともうすのは小田原の漁船ほどのもので、本船へまいりますあひだ木の葉のやうにゆれるのでございますもの。海をみてはいけない、じつと僕の手をみておいで、と夫はもうしました。私は、いはれたやうにいつしようけんめいあのひとの節の太い手をみつめてをりました。さういたしますと、なんだか、このがんじような手が、私の一生をぎゆつとつかまへてしまつてゐるのだと妙な気持がいたし、たのもしいよりも怖くなつてきてこまりました。お母さまのお手からこのひとに移され、このひとがこれから先の生涯をともにいたすひとなのだとそのときはじめて身にしみて考へられたのでございました。
本船は大きく、それに上等の船室をとりましたので、ちようど応接間にでもをりますやうにお花など飾つてあり船のなかとはおもはれぬやうでございました。でも、小さな円い窓から、内地の陸の影が次第に遠のいてゆくのをみておりましたら、いよいよ、お母さまと同じ陸つゞきの土がふめなくなつたのだと気づき、涙がこぼれてきてこまりました。
でも、夫は大変やさしいひとでございます。なんだか真面目すぎるやうな顔して、気むづかしいひとではなからうかと、ご心配なさいましたけれど、ときどき面白いことをいつて笑はせ、真面目なかほして冗談をもうしますので、びつくりいたします。小樽に下車したときでございました。十二月のさなかなので町はすつかり雪、この雪のこともくはしくおしらせしたいのですが三尺も四尺も雪がつもつたら歩けはしまいとおつしやいましたけれど、立派に歩けますのですよ。しかも下駄ばきで歩けるのでございます。そのかはり、雪がすつかりふみかためられて鏡の面のやうに硬くなつてをりますので、氷の上を歩くと同じなのでございます。はじめて小樽の街でその雪道に出ましたときは、どうにも滑つて歩けずたうとう停車場の前で立往生いたしてしまひました。
夫は私の信玄袋まで持つてくれて、さあ大丈夫だから僕につかまつてお歩き、ともうすのですけれど、ひとさまがみてゐるのですもの、つかまつてなど歩けはいたしません。よろしいのでございますよ、と一足二足あるき出しましたが、軽業の玉のりみたいなのでございます。そばを通る女のひとたちが、なんの苦もなささうに早足で歩いてをりますのにあきれて、どうしたら滑らないのでございませうねときゝましたら、夫は、かゝとに力を入れて大またに歩けばころびはしないよ、と真面目なかほしてもうしますので、私はいはれたとほりにして歩きだしたと思ふとすぐ、みごとに、子供みたいにころんでしまひましたの、すると、夫は面白さうに大笑ひいたすのでございます。正直なひとだ、ほんとうにかゝとに力を入れたんだな、そりや反対なのだよ、爪先に力を入れて、小きざみに歩くんだよ、と、たすけ起し、今度は私の腕をつかまへて歩いてくれました。反対なことを教へるなんて、ずいぶんなひとだと、憎らしうございましたけれど、あのひとがそんな冗談をいふのがおかしく、私より十二も年上の大人なのに、やつぱり子供みたいなところがあるので、ほつといたしました。小樽の町は言葉のあらい、みんなけんくわしてゐるみたいな口のきゝかたをいたすところですが、泣きたいやうに夜の美しい街でございます。
あくる朝また四時間ほど汽車にゆられ、札幌を通り越してやつと夫の村に着きました。村ともうしましたけれど、村といふ言葉ではいひあらはせません
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