んな衝撃《ショック》を受けて、一時は茫然としてしまったんです」
号外をひったくって、斜に飛び読みしてみると、だいたい、こんなことが書いてあった。
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(六日午後三時大統領ポール・ズーメ氏は、ロスチャイルド会館で開催中の大戦出征作家絵画文芸展覧会を訪問中、一露西亜人の暗殺兇行の犠牲になった。兇漢はピストル三発を直射。大統領は一弾を頭部に、二弾を肩部に受け、ただちにポオジョン病院に収容されたが、なにぶんにも七十四歳の高齢なので、生死を危まれている。犯人は、カラスキー・ゴイゴロフと称する白系露人で、仏国政府に労農政府が干渉せず、ボルシェビキ排撃を決行しないことに深い不満を抱き、仏蘭西首脳者に危害を加えたものと解せられる)
[#ここで字下げ終わり]
石亭先生は、頸まで真っ赤にしていきり立ちながら、
「いったい、なんの必要があって大統領なんかを殺すんです。仏蘭西の大統領なんぞは、外国のほうを向いて立っている、一種の社交の人物にすぎないんだから、そんなものを殺してみたってなんの役にも立ちゃァしない。実際あの気狂い野郎のやりそうなこってすよ。馬鹿々々しいにも程がある。……あの面相にしてからが、典型的な|悖徳狂の型《モーラル・インサニティ・タイプ》[#「悖徳狂の型」は底本では「悸徳狂の型」]で、ああいう乖離《かいり》性素質のものこそ、こういう傾向的犯罪を犯しやすいんです。ああいう種類のやつの非人情、残忍性ときたら、とても常識で律するわけにはゆかんのですからねえ」
なるほど、先生のような見方もあるだろう。カラスキーが先生に贈ったひそかな友情については、それを先生に告げる意志は毛頭なかったが、それはそれとして、少しばかり先生を困らしてでもやらなければ、虫がおさまらぬような気持になってきた。
「ねえ、先生、カラスキーがあなたをどこへ誘ったって言いましたっけね」
「サン・トノーレ街です」
「あなたは、サン・トノーレ街に大統領官邸《パレエ・ド・レリゼ》があることをご承知でしょうね」
「えッ」
「つまり、カラスキーは、あなたを大統領暗殺のお先棒に使うつもりだったのですね、こいつァどうも際どかったですナ。ノソノソ後を喰っついてでも行ったら、否応なしに断頭台《ギヨチーヌ》の上から巴里にさよならを言わなければならないところでした」
石亭先生は、咽喉の奥で、うるる、と妙な音を出すと、壁際までよろけて行って、そこで、ドスンと尻餠をついた。
底本:「現代日本のユーモア文学 6」立風書房
1981(昭和56)年2月28日第1刷発行
底本の親本:「久生十蘭傑作選3[#「3」はローマ数字、1−13−23]」教養文庫、社会思想社
初出:「オール讀物」
1939(昭和14)年12月
入力:佐野良二
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年12月20日作成
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